追憶の時計
扉を開けると、中の空気は辺りの数倍重く、その元凶は部屋の中に座りこちらを見据えている男が発している威圧感のようなものと思われた。
その男は教室の扉の真向かい、生徒会長と書かれた札が置いてある机に座り、目の前で手を組んで、光が反射する眼鏡の向こうから射抜かんばかりの視線でこちらを見ていた。
「やあ、何か用かな。」
先方が発した声に、越智と和泉は完全に縮み上がっている。俺はぐっと腹に力を入れた。
「新入生、一年C組の各務遥翔です。落し物の管理は生徒会がしているものと聞いたので。」
こちらの返答を聞くと、彼の態度は一気に和らいだ。
「なんだ、そういうことかい。変な態度で接して悪かったね。生徒会長の松尾優生だ。ところで落し物というのは?」
彼の先ほどとは打って変わった人良さげな表情を見て、俺は安心ではなく警戒した。一体彼の腹の中にはどれだけどす黒い物が渦巻いているのだろうか。親しげだがどこか油断できない男。俺は彼の第一印象をそう結論付けた。
「あ、あのぅ…昨日こんな物を拾ったのですが…。」
先ほどまで俺の後ろで縮こまっていた越智が警戒を解いて俺の横から歩み出る。その手には例の時計が握られていた。
「あ、俺もです。」
俺も遅ればせながら時計を取り出すと、松尾優生先輩(以下、会長と呼ぶことにする)は軽く目を見開いて、興味深そうに、ほう、と息をついた。
「それは懐中時計だね。黒と銀か。少し見せてくれないかな?」
会長の言葉に従い、二人は前に出て時計を手渡す。煌太と和泉は後ろで所在無げに立ったままだ。会長は神妙な顔つきで例の落し物をまじまじと見つめている。
「ふむ…やはりこれは…。戊と癸だね。」
会長が漏らした不可解な呟きに、一同は揃って小首を傾げた。
「まあ、新入生は知らなくて当然だろう。これはまあ、ウチの学校に伝わる伝説のようなものさ。」
伝説、というワードが出た瞬間、後ろから何やら歓喜のオーラが湧き出た。振り返ると、煌太が随分と興奮した様子である。
「で、伝説ですか!?それは七不思議とかそういった類の…?」
この手の話題に目がない煌太は、目を爛々と輝かせて会長に迫る。
「ま、まあそういうことになるかな。」
さすがの会長も苦笑いをしている。煌太に続きを急かされることもなく、会長は語り始めた。
「"追憶の時計"と呼ばれる伝説だ。ある日、どこからともなく10つの懐中時計、甲乙丙丁戊己庚辛壬癸の十干の刻印が施してあるものが校内に現れる。それは不思議と過去に未練があるものの手に渡り、それらの者たちが邂逅すると戻りたい過去に還ることができる…。所謂、タイムリープができるという、高校生というより中学生が好きそうな御伽話だよ。」
「なるほど。俗に言う中二病的設定だ、と会長はお考えなわけですね。」
会長は首を竦める。
「と、ということは…遥翔と越智君は選ばれた10人の内の二人ということなんですね!?」
「お前人の話最後まで聞いてたのか?」
俺の指摘など聞こえぬ様子で、煌太は俺に鬼気迫る様相で詰め寄る。
「だって選ばれし10人だぞ?タイムリープだぞ?お前はこれにロマンを感じないと言うのか!?」
「いや、だから所詮作り話なんだから…」
二人のさながらコントのやり取りを苦笑をたたえて見守っているのは越智と和泉である。
「お二人で楽しんでいるところ口を挟むのは心苦しいのだが、」
会長が再び態度を変え、有無を言わせない口調で発言するのを聞いて、俺は、楽しんでないです。と答えるのは心の中だけに留めて黙る。
「生徒会としての対応だが、あくまで先ほどの話は噂程度のもの。確かに同じ日に似たような時計が見つかるのは偶然とは思えないが、偶然という可能性もなきにしもあらず。落し物として持ち込まれた以上、管理はこちらで引き受けよう。一週間以内に報告がなければ君たちにあげようと思うがいいかな?」
会長の言葉に俺と越智は同時に頷く。煌太は少し残念そうな顔をしながらも後ろで黙って立っている。こちらの対応を見た会長は再び雰囲気を和らげ、楽しそうに口を開いた。
「よろしい。ちなみに君たちはどんな過去に未練があるんだい?」
「先輩。他人の過去を詮索するのは野暮ってものです。」
先ほど御伽話と自らが言ったことについて言及するのは確固たる矛盾があるが、俺はその別のマナーのところを指摘した。会長はそのまま表情も変えず、それもそうだね。と呟いた。
「それでは失礼します。来週、また越智と参ります。」
俺は恭しく礼をすると手早く生徒会室を出た。他の三人も続く。後ろでは、会長が真意の読めない謎の微笑みをたたえていた。
「早くも二人…予想以上に早かったかな。」
などと独り言をこぼしながら。
*****
学校は5限の授業の真っ最中。入学二日目ではあるが、既に授業は始まり、教卓では古典の教師がオリエンテーションを行っている。
和泉や越智は真面目に前を向き、煌太はあろうことか机に突っ伏している。かく言う俺はと言うと、窓の外を眺めていた。
窓の外の空は、昨日に引き続き分厚い雲に覆われている。空からはぽつりぽつりと小雨が落ち、強い風が吹き荒れている。先日落ちた桜の花も舞い散り、ランドセルを背負った小学生も色とりどりの傘を花のように咲かせている。
俺の頭の中は混濁していた。会長の言葉が脳内を過る。
ー戻りたい過去に還ることができる。
馬鹿馬鹿しい話だ。時間を旅するタイムマシン理論は否定されているというのに、こんな辺鄙な学校にそんな迷信が未だに残っているとは。
確かに戻りたい過去ならないことはない。しかし、それは人間であれば誰しもが持っているもののはずだ。"あの時こうしていれば"という思いは誰だって一度は経験したことがあるだろう。
鬱陶しい。そんな夢物語のような伝説も、そんな伝説に一縷の希望を持っている俺も。俺は盛大にため息をついた。
「そんなにため息ばっかり吐いてたら幸せが逃げちゃうよ?」
先ほどまで机に伏せていたはずの煌太が声を抑えて言った。それは、昨日和泉が俺にかけた言葉と同じものだった。
「言葉って言う人によって本当に印象変わるよな。不快だからもう二度と言うんじゃないぞ。」
煌太はやれやれといった調子で首を振る。
「そんなこと言って…どうせ時計のこと考えていたんでしょ?」
俺は咄嗟に否定しようとしたが、思わず黙り込んでしまう。
「……なんでわかった?」
「なんとなくだよ。ほら、これも友情の為せる技じゃなくて?」
ドヤ顔で決めている煌太を冷たい目で一瞥してから、話はこれで終わりだ、とでも言うように目線を前に向けた。
「ねえねえ、タイムリープしたいんでしょぉ?」
後ろからねちっこい声がかけられるが、無視。
「おや?黙るということは図星かなぁ?」
煌太は図に乗って続けるが、無視。
「ほらほらあんなこと言いながらも結局遥翔は子供なんだから…。」
「こら、そこうるさいぞ。」
調子に乗った煌太は、注意をされると驚いて身を縮こめる。
「さっき私はなんと言った?二人共。」
先生からの厳しい視線に煌太は完全に黙ってしまった。それに対して俺はというと、
「授業中の私語は厳禁だと仰りました。」
「よく聞いていたな各務。友人とのお喋りに現を抜かしているようでは置いていかれるから気をつけるように。分かったな河合?」
「は、はぁい…。」
煌太からの弱々しい返事にクラスからは笑いがこぼれた。