オニオンスープ
ぺりっ。
彼を覆っていた膜が、また1枚剥がれた音がした。
「なんで、そんなこと言うの」
怒りや憤りが膨れあがる中、張りつめた喉が絞り出したのは、そこに含まれたわずかな悲しさだけだった。
「そんなこと、って。俺は当たり前のことしか言ってないよ」
ぺりぺりっ。
「そうじゃなくて」
ただ寄り添って欲しかっただけ。その言葉は喉を通りきらず、濁った澱となって胸の奥に落ちていく。
「言いたいことあるならいいなよ」
彼の指が規則的な音を立てて机の上を叩く。苛々している時のくせだった。
「……なんにもないよ。だいじょうぶ」
じっとりと湿った足裏には、彼から剥がれ落ちた膜がまとわりついている。
2年をかけて1枚、1枚とゆっくり剥がれ落ちた膜は水分を失って萎びていた。
椅子から立ち上がり、寝室へ向かう。背後から大きなため息が弾ける。横目で彼を見た。彼を包む膜はもう、核となる芯を晒しそうになっていた。
あの芯まで剥き出しになったとき、彼は何になるのだろう。わかっているはずなのに、思考は霧に包まれたようにぼんやりとしている。
絵の具の輪郭が指で擦れて滲んでしまったように、その正体に触れそうで触れられない。
ベッドに潜り、壁におでこを当てて目を閉じる。そして、彼から剥がれた膜について考えてみる。
1枚。歩幅が、徐々に合わなくなっていったとき。
1枚。相槌が「うん」から「ん」に変わったとき。
1枚。お互いに背中を向けて寝るようになったとき。
7枚、8枚……数えるのをやめようとしたとき、彼もベッドに入ってきた。ぎしりと鈍い音を立ててマットレスが勢いよく沈む。
いつの間にか、おでこを冷やしていた壁はすっかりぬるくなっていた。
もう少しで夢を見られそうなところで、彼のいびきで現実に引き戻される。何度寝返りを打っても、布団と体の間に籠った熱が冷めない。
上半身をおこし、彼の広い背中を見る。よれたTシャツの襟がうねうねと波打っていた。肺に溜まった空気をゆっくりと吐き出して、彼を跨いでベッドから降りた。
お腹をさすりながらキッチンへ向かう。鍋に水を注いで弱火にかける。冷蔵庫を開くが、小腹に溜まりそうなものは何も見当たらない。
奥へ手を伸ばすと、かさついた感触が指先に触れた。そのまま掴んで取り出すと、新聞紙に包まれたまるが出てきた。
開いて見ると、少し水気を失った玉ねぎだった。傷んでしまう前に食べなければ。頭の部分の皮を指で摘んで剥がしていく。
カサカサと乾いた音が無音のキッチンに響く。彼から聞こえた音と同じだった。包丁で頭と根本を切り落として、薄切りにしていく。
「あっ」
ぼてりと一欠片がまな板から転がり落ちた。包丁を置き、拾い上げる。なんとなく、くっついたままの層を手で剥がしてみる。1枚、2枚、3枚……。焼けるように目が痛む。
頬を濡らしていく涙を玉ねぎのせいにして、煮立ったお湯の火を止める。コンソメと玉ねぎを加えて、再び火にかける。
徐々に色が変わっていくスープをぼんやりと眺めた。やがて、金色になったスープの中で、玉ねぎがくるくると踊っていた。
煮えるのを待つ間、洗い物を済ませようとまな板を見る。痩せた芯がまな板の上に残されていた。
取り残された可哀想なそれを指先で摘み、口に放り込んだ。
奥歯でゆっくりと噛み砕く。既に乾き切ったそれは、舌の上に暴力的な辛みを広げた。溢れた唾液と一緒に飲み込むと、喉が焼けるように痛んだ。
きっと、彼から剥がれ落ちた膜の先、最後に残る芯もきっとこんな味がするのだろう。
また、涙が溢れてくる。ゆっくりと吐き出した息は、独特の生臭さを放って換気扇の奥へと消えていった。




