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追跡するもの

 夜明け前。

 ダンジョン中層に澱む魔素が低い霧となり、キャンプ地を白く朧に塗りつぶしていた。

 本物の太陽が昇る前の、青白い偽りの黎明。第17獣道の丘陵地は湿った静寂に包まれている。


 久間川レイジは、シュラフからゆっくりと身を起こすと同時に周囲の気配を探った。

 昨夜、互いのプライバシーに配慮した距離で火を囲んでいたゴンたちベテランパーティの姿は跡形もなかった。彼らは自分たちの流儀に従い、夜明け前の魔素の凪を突いて、音もなく狩りへ出立したのだろう。


 レイジは無言でバーナーに火を入れた。シュン、という低い燃焼音が朝靄に消える。  

 慣れた手つきでコッヘルに水を満たし沸騰を待つ間に、湯に溶かしてすぐ飲めるようあらかじめ粉末状にして持ち込んでいる深黒茸ディープキノコを準備する。容器を開けただけで周囲に広がるのは、甘く香ばしい、馥郁ふくいくたる香りだ。およそダンジョンの深淵で採取されたものとは思えないほど芳醇な匂いは、初めてこのキノコ汁を口にする者を誘惑し、口に入れた瞬間に絶望の淵へと叩き落とすための凶悪なトラップとして機能する。


 湯が沸くまえに携帯端末の受信メッセージを確認する。

 昨日、音声入力モードで口述筆記して会社に送信した日報への受領確認通知。同僚からの私信が追記されている。


『うまくやってるか?お客さんに変なもの飲ませるのはやめとけよ。くれぐれも無茶はしないこと。安全第一。帰社するまでが遠足だ。神であるママより』

 レイジはあの野郎、と小さく笑って端末を仕舞った。


「……おはようございます、久間川さん」

 テントのジッパーが静かに開き、橋広教授が這い出してきた。ロマンスグレーの髪は少し乱れているが、その表情は前日の疲労を感じさせないほど溌剌としている。

 年齢や見かけよりタフな人物らしい。


「おはようございます橋広さん……ゴンさんたちはもう行きましたよ」

「そのようですね。またお会いしたときは是非お話を……おや、それは昨日の?」


 レイジは漆黒の液体が満ちたマグを軽く掲げた。

「飲みますか。ブラックですが」

「ああ、ありがたい。いやあ、この歳になると朝すぐ目が覚めましてねえ。二度寝をする体力も残っていないときた」


 教授は丸メガネを指で直し、湯気の立つマグを受け取ると、躊躇なく一口啜った。

 常人ならばその甘い香りとは裏腹な強烈な味と刺激に舌が職場放棄し、食道から直腸にいたるまで全消化器官界隈が一致団結して拒絶反応を起こす代物だ。しかし教授は、「ふむ……」と深く頷き、満足げな吐息を漏らした。


「……五臓六腑に染み渡りますね。大地の記憶を感じるようだ。久間川さん、あなたの淹れるコーヒーには他にはない深みというべきものがある」

「……残念ながらその深みを理解できる者は限られているようです」

 レイジは、これまでの犠牲者たちの苦悶に歪む愉快な顔を思い浮かべたのか、あるいは昨夜の惨状を思い出したのか、少し不満げに鼻を鳴らした。


「橋広さんのように味のわかる人間は貴重ですよ」

「あっはっは」

 そこへ女子テントの方から佐伯ミレイが現れた。

 彼女は昨夜、キノコーヒーを完飲した唯一の学生だった。


「おはようございます。……この香り、昨日のコーヒーですか?不思議な味でしたね。久間川さん、私にも一杯いただけますか?」

「もちろん!君もわかってるようだな。さすが武蔵野魔導大学ムサマ生だ!」

「恐縮です」

 レイジは仲間が増えた喜びに満面に笑みを浮かべながらミレイにマグを渡した。

 ミレイは礼を述べて眉一つ動かさずに熱い液体を啜る。


 一方で、テントの影からゾンビのような気味の悪い動きで這い出してきたのはアメリ、リヒト、カイルの三人だった。彼らは朝靄の中で、鼻腔を犯罪的にくすぐるあまりにも「良い香り」と、それを啜りながら談笑している三人の姿を見て絶句した。

 モモナはまだ意識を失っていた。


「そんな……先生やミレイさんがあちら側の人間だったなんて……」

 アメリが震える手で口元を押さえる。

 リヒトは昨夜の体験がトラウマになったらしい哀れな胃の反応に腹を押さえ、カイは虚ろな光の無い瞳でその光景をぼんやりと見つめていた。


「先生、佐伯さん……大丈夫なんですか。それ、昨日僕たちが倒れた毒物ですよ……?」

「天宮くん、失礼ですよ。ほら、君たちもどうかね?」

 教授がにこやかにマグを掲げると、学生たちは病気のザリガニのように一斉に後ずさった。

   

 そんな喧騒から少し離れた場所で九条シューマは髪を整え、水筒から注いだ白湯で優雅に喉を潤していた。

 彼は昨夜、全員にレイジ汁が注がれたマグが配られた際、マグを受け取ると虚ろな表情になったアメリの反応を見てすぐに口を付けず、何も知らないリヒトやカイルが一口飲んで瀕死になる様を珍獣の毛繕いを観察するように眺めると

 ――失礼。私は胃が刺激物に弱いもので。せっかく用意していただいてたいへん心苦しいのですが体調を崩して調査に支障が出ては申し訳ない――。

 と、もっともらしい理由を並べて巧妙に回避していた。


「よし、じゃあすこし早いが朝食にするか」

「はい!あ、ミレイさん、今朝は私がやりますからゆっくりしててください」

 レイジとアメリが立ち上がり準備を始める。

 モモナはまだ意識を失っていた。


 キャンプでの朝食を終えたあと、一行は目的地に向かって出発した。

 第18エリア。そこは中層の中でも深層境界バウンダリに近く、動物相、植生ともに一段と異界の色彩を強める場所だ。


「オニヤンマ1、飛ばしまーす」

 カイルが手慣れた動作でムサマが独自開発した学術調査用ドローンを放つ。学生たちがその細長いシルエットから『オニヤンマ』と愛称をつけた機体だ。

 もっぱら野生動物追跡バイオロギングに使用される。小さな駆動音は消音機構によって数メートルも離れれば森のざわめき、背景音に溶けて消える。


「先行させて、エーテル深度とサーモをマッピングします。うーん、死角ナシ」

「過信はするなよ」


 レイジが釘を刺した。  

 彼はドローンが取得する情報ではなく、湿った地面に生えた月光茸の偏った倒れ方や風に乗って流れてくる花の匂いに意識を向けていた。

 風ではなく何か巨大な質量を「避ける」ように奇妙な角度でたわんでいる鋼糸蔓ワイヤーヴァインの葉の乱れ。

 本来なら魔素の脈動に惹かれて群れるはずの燐光蝶フォスファーは一匹残らず葉の裏に潜んで微動だにせず、地を這う夜棘蟻スパインアントの列は自分たちが進む方向とは逆へ、まるで大洪水から逃れるかのように一斉に行軍を開始している。

 センサーには拾い難い異界の警報こそが、レイジが注目するものだった。


 探索を開始して数時間。

 一行は幾度かのモンスターとの遭遇を、カイが巧みに操る健気なドローンから得た偵察情報とレイジの「あそこを通るな。風下に獣が溜まってる」や「この岩苔の擦れ具合が新しい。ついさっきまで何かがいたな」といった指摘によって事前に回避していた。


「……驚きました。久間川さん、あなたはもはや生体レーダーに近い」

 橋広教授が感心したようにノートにペンを走らせる。彼は記録に関してはアナログ派だった。


「我々アカデミズムの徒は、生体統計学的モデリングや環境動態学的パラメータあるいは既知の分類学的プロトコルに基づき対象の行動様式に演繹的にアプローチします。しかし久間川さん、あなたの観察眼は大気の密度勾配や植生の極微な非線形性……いわば全感覚器官を異界のコンテクストをリアルタイムで復号するための生体インターフェースへと止揚させている。じつにヒューリスティックな知見だ」

「……よくわかりませんが、まあ慣れです」


 レイジは橋広が早口で詠唱する謎の呪文を大体聞き流しながら、不自然に倒れた巨大なハート型の葉をピッケルでめくりあげた。

 そこには、粘液に塗れた奇妙な穴が地面を抉るように続いていた。


「先生、見てください! これ、例の目撃報告にあった痕跡です!」

 アメリが声を上げ、カメラを向ける。それは二足歩行の足跡にも見えるが、指の数が不規則で、そこから続く似たような痕跡との間隔もまた一定ではない。

 橋広は地面に這いつくばり痕跡を舐めるように観察し、目を輝かせた。


「……実に興味深いですね。歩幅の変化から考えてこの個体は頻繁に姿勢を変えながら移動している。二足歩行とナックルウォークを切り替えているようだ……追いましょう。この鮮度なら、まだそれほど離れてはいないはずです。ムフッ!ムフフッ!」


 にわかに色めき立つ学生たち。

 ただひとり、レイジの表情は曇っていた。いきなり教授がキモい、というのはいったん置いておく。

 その場にしゃがみ込み土を触り土壌の水分量を確かめ、その不規則な足跡の向きとエッジの崩れ方を注視する。このサイズ、この重量の個体が移動したのであれば、本来なら周囲の低木や枝にもっと強引な損壊跡が残るはずだ。そして教授がキモい。

 だが、この足跡はまるでそこだけを狙って踏み抜いたかのように、不自然な間隔で点在している。

(……どういうつもりだ?)

 狩りの鉄則は、己の存在を消し環境と一体化することだ。しかし、この痕跡の主は自分の足跡を隠そうともせず、むしろ誇示しているように見える。獲物を追う獣の動きではなく、捕食者から逃れる動きでもない。

 レイジの喉の奥に、キノコーヒーよりも苦いものがこみ上げた。


「深追いするな。いつでも引ける態勢を保て」

「……ああ、すみません。つい冷静さを失ってしまいました。面目ない」

 四つん這いでカサカサと這いまわり痕跡を調べていた橋広が我に返り立ち上がった。深呼吸し呼吸と装備を整える。

「諸君、周囲を警戒しながら常に退路を確認しつつ慎重に行きましょう」


 追跡を開始して数キロ。

 レイジの脳裏に疼いていた疑念は、じわじわと冷たい確信へと変質していった。


(……おかしい。あまりにも都合が良すぎる)

 レイジは足を止め、数メートルおきに現れる痕跡を見つめた。

 まるで展示会の順路を示す案内板のように「来訪者」への気遣いに満ちた残し方。


(まさか……)

 この足跡には自らの存在を誇示し、なおかつ追跡者の意識を特定の方向へと誘導しようとする「作為」が透けて見える。

 追う者が手掛かりを一つ得るたびに安堵し、あるいは喜び勇んで歩みを進める、その一挙手一投足が、既に相手の意図通りなのではないか──。


「……止まれッ」


 一行の先頭をゆくレイジが握り拳を上げ、鋭く叩きつけるような声で一行を止めた。ハンドサインの指示通りに全員がしゃがみ込む。


「どうしたんですか、久間川さん?ドローンの反応はなにも……」

 自分の問い掛けに答えずに振り返って睨みつけてきたレイジにリヒトは反射的な反感をおぼえたが、すぐにレイジが見ているものが自分ではないことに気づいた。

(なんだ?)後ろを振り返り、視線をレイジと同じ方向に向けた瞬間、


 森の外周の茂みが爆ぜるように千切れ飛ぶ。

 猛然と飛び出してきたのは、中層の強者であるはずの猪獣カプロスだった。

 その巨体は血に汚れ、瞳にはかつてレイジが遭遇した時のような野生の威厳はなく剥き出しの恐怖だけが宿っていた。

 猪はレイジたちを完全に無視し死に物狂いの勢いで反対側の森へと消えていった。


「猪が逃げている……? 縄張りを捨てるほどの恐慌状態?」

 佐伯ミレイがその光景の異常さに絶句する。

 その言葉と同時に、猪が逃げ出してきた森全体が激しく波打った。

 飛び出してきたのは鎌狐ファルクスの群れと、単独行動を好む闇猫ガートスだ。

 鎌のような尾を低く丸めた狐たちが耳を伏せ、レイジたちのそばをまるでそこに人間など存在しないかのように必死に駆け抜けていく。

 音もなく樹間を渡る不可視の捕食者である闇猫さえも、今は形振り構わず泥を跳ね上げ地面を蹴り、悲鳴のような鳴き声を上げながら走り去っていった。

 彼らは獲物を追っているのではない。「何か」から逃げ出しているのだ。

 獣たちが消えたあとには沈黙だけが残った。

 静寂が一帯を包み込む。


 そのときカイルが静音ドローンの異常に気付いた。

「…… あれ?おかしい。ヤンマちゃんのテレメトリがこねえ……」


 次の瞬間、モニターに映っていた空撮映像が歪んだガラスのようにひび割れ、信号が完全に消失した。


「……全員、武器を抜け!」

 レイジの怒号が鋭く響く。学生たちが互いの顔を見合わせ狼狽する中、レイジは静まり返った森を睨みつけた。目に力を込め、視野全体で魔素の揺らぎを追う。

 今まで彼らが追っていた足跡。

 先程から不自然に途切れてはまた現れるその不可解な軌跡をレイジは頭の中で繋ぎ合わせ、地形と照合する。


 ――やられた。


「橋広さん……あの足跡、おかしいと思いませんか?」

「……え? ああ、不規則な歩法ではありますが……」

「違う。あれは、歩き回っていたんじゃない。わざと目立つように《《描いて》》いやがった」


 レイジの背筋に、氷を押し付けられたような悪寒が走る。

 自分たちはこの数時間、足跡を追っていたのではない。

 足跡によってこの場所へと誘導されていたのだ。

 森の木々が、凪に震える。

 レイジの視界の中心にドクン、と2つの赤い波紋が脈打った。

 両眼のように並んで赤く輝く、凝集する高密度の魔素。

 自分たちがモンスターを避けて通り過ぎてきたはずの場所に、いつの間にか自分たちをじっと見つめる「眼」が存在していた。


「追っていたのは、俺たちじゃない」

 レイジが、鈍く黒光りするピッケルを地面に突き立てた。


「……ずっと、後ろに居たんだ。俺たちが足跡を見つけて喜んでいる、その後ろに」


 静寂が、ついにその牙を剥こうとしていた。


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