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武蔵野魔導大学

 数日後。八王子工業区の空は、重苦しい湿気を含んだ低い雲に覆われていた。


 会社が資材保管用に保有する倉庫の二階。

 古い換気扇の唸り音で久間川レイジは目を覚ました。

 一階には各種機材や予備パーツが保管されている。ここを「社宅」として利用しているのは彼一人だけだった。

 「会社にもダンジョンにも近い。最高の立地」とレイジは満足していたが、同僚は「いいかげんまともな住居に引っ越せ。おとなしく人類の文明を受け入れろ」と事あるごとに説教してくる。


 スノコの上に特大のマットレスを置いただけの簡素なベッドから身を起こし、レイジは大きく伸びをした。

 広い作業用デスクには清掃・整備中の器具が置かれ、壁一面のスチールラックや壁面収納には手入れの行き届いた登山ギア、計測機器、無骨な工作ツールが整然と並んでいる。

 鉄骨の隙間に渡されたパイプハンガーにはアウターシェルやバックパックが機能的に吊るされていた。

 住人のむさくるしい外見とは裏腹に衣類は几帳面に畳まれ、種類ごとに分類されたケースへ綺麗に収納されている。

 その整頓癖は軍隊のそれに近い。緊急時に必要なものを即座に手に取れるよう、あらゆる物品が定位置に収まっていることこそが最も合理的で利便性が高いからだ。


 レイジは使い古された毛布を畳み、後付けで据え付けられた洗面台の前に立つ。

 鏡の中には蓄積魔素の影響で微かに赤みを帯びた眼球、ダンジョン内作業中に伸びた不精髭で輪郭が曖昧になっている無愛想な顔。

 財布からダンジョンダイバー(DD)のライセンスカードを取り出して、写真と今の自分を見比べる。カードにプリントされた眠たげな男の顔は、今よりいくらか若く髭もない。


(……教育者ねえ。ガラじゃない)


 そもそも、他人を導くなどという器ではない。自分にわかるのは山の歩き方と美味いコーヒーの淹れ方だけだ。絶対美味い。

 まったく気乗りしないままシェービングフォームを手に取ると、不精髭を剃り落とした。

 鏡に映る、陽と雪に灼かれた赤銅色の顔に「よう、ひさしぶり」と挨拶しジオ・スキン社製のインナーに袖を通すと、その上に会社支給のFENSロゴが入ったブルゾンを羽織る。

 コンビニで買った栄養ゼリーを啜りながら、レイジは武蔵野魔導大学ムサマの八王子キャンパスへと足を向けた。


 目的のムサマの第2号棟の外観はスマートなデザインだった。

 大部分がダンジョン資源を用いた高機能複合建材と、魔素干渉を遮断する透過素材で構成されたその建物は大学というよりはテック企業の本社ビルじみている。


 外来者受付で来意を告げ、DDライセンスカードを取り出して身分を提示。

 受付担当者は重厚なブラックとゴールドのカードを見ると、珍しそうに手を止めてレイジの顔を見あげる。

 ライセンスに印刷された顔写真とレイジの顔を見比べ、うなずいた。


 発行されたビジターパスを首にかけ、セキュリティゲートを通過する。

 民間の警備員たちが、場違いな巨躯の部外者に警戒を含んだ視線を向けるのを背中に感じながら、彼はエレベーターで橋広研究室へと向かった。

 研究室のドアを軽くノックする。


「失礼します。お約束していたFENSの久間川です」

 短く声をかけてからドアを開けると、室内は地上の物理法則と異界の神秘が渾然一体となった空間だった。

 一方の壁一面を覆う多目的ディスプレイには、中層から深層にかけてのリアルタイムな魔素濃度分布図エーテルグラフや得体の知れない生物の画像ファイル等が画面を分割して映し出され、隅のデスクには特殊処理されたモンスターの骨格標本や、怪しく発光する体組織サンプルが収まったケース等が乱雑に並んでいる。ホワイトボードの中層マップには、さまざまな記号やコメントがデジタルマーカーで書き込まれていた。


 室内にいた数人の中で真っ先に反応したのは田沖アメリだった。

 彼女は名物カレー店、テングクリムゾン激盛完食者に贈られる記念Tシャツの上に着た白衣を翻して駆け寄ろうとして――その途中で足を止めた。


「む? ……どなたですか? 先生、今日の打ち合わせに新しい講師の方が?」

 きょとんとして首を傾げるアメリの瞳には、かつて自分をダンジョンから救い出した髭面の男と目の前のレイジが結びついていないようだった。


 「おや。印象が随分変わりましたね、久間川さん。……田沖くん、命の恩人を忘れるとは失礼ですよ」

 デスクで資料を整理していた橋広教授が、穏やかに微笑みながら立ち上がった。


「えっ!? 久間川さん!? うそ、若返ってる!? 髭がないと、なんだか……人に見えますね!なんで切ったんですか?失恋ですか?」

 ようやく正体に気づいたアメリが、失言を垂れ流しながら寝癖をぶんぶんと揺らしながら詰め寄ってくる。レイジは鬱陶しそうに大きな手で彼女を押し止めた。

 おまえの「忘れない」と言った天文学的期間は数日なのか?


「身分確認で止められるのが面倒だっただけだ。……今日はよろしくお願いします、橋広さん」

「ええ、こちらこそ」

 とレイジが橋広が挨拶する横でアメリが声を上げた。


「はい皆さん! こちらが!先日お話しした!私の命の恩人!高尾のインフラを支えるダンジョンの大・聖・人、久間川さんです!」

 彼女の過剰なアピールによって、部屋にいた学生たちの多様な温度の視線がレイジに向けられ、突き刺さる。

 レイジは居心地の悪さに目を逸らした。


「……久間川レイジです」

「三年の天宮リヒトです。このメンバーの中では僕が一番モンスター対応力が高い、と覚えておいて下さい。状況が手に余るようなら頼ってもらってかまいませんよ」


 最初に学生たちの中から名乗り出たのはハイゲージのインナーの上にドロップショルダー気味のダブルブレストを重ね、同素材のワイドテーパードとブラックスムースレザーのペニーローファーという「良家の子弟」感漂う青年だった。彼はウェーブのついた前髪をかき上げ、値踏みするような視線をレイジへ向ける。


「JASROの下請け作業員の方ということですが――ずいぶん……たくましい。失礼ですが、装備のスペックは足りているんですか? 今回の調査は中層とはいえ、最新のデバイスなしでは足手まといになりかねませんよ」


 リヒトはそう言うと胸ポケットからアカデミックライセンスであることを示す赤い縁取りがなされたダンジョン探索者ダイバーライセンスカードを、見せつけるように取り出した。

 まばゆいホワイトシルバーの輝きは、彼が学生の身でありながらダンジョン中層までの立ち入りと調査権限を認可されたエキスパートクラスのダンジョン探索者ダイバーであることを示していた。

 リヒトの「いや別にこの程度の事を自慢するわけじゃないけど?」と言いたげな態度で、しかし誇らしげに掲げられたカードをちらりと見たレイジは、深くうなずくとひかえめに微笑んだ。


「いや、立派なものだ。すばらしい」

 その声には嫌味や皮肉、あるいは相手を試すような響きはない。これから同行する「お客さん」のひとりが最低限の生存能力を持っていることを確認できた嬉しさだけがあった。


 (まあ()()でも素人よりはマシだろう)


 「フッ……ムサマの学生としては当然ですよ」

 リヒトはレイジの反応に満足し得意気に言った。

 どうかな?わかったかな?これで僕に一目置かないわけにはいかないだろう――と確信しDDライセンスカードをポケットへ戻した。

 互いの評価の乖離にはお互いまったく気づいていない。


 次いでスレンダーな枯葉色のベリーショート、スクエアネックの黒いリブタンクトップの上にアメリと同様に白衣を羽織ったシャープな印象の女子学生が立ち上がった。

「四年の佐伯ミレイです。繁殖生態学、遺伝変異を専攻してます……久間川さん、うちの田沖を連れ戻していただき、本当に感謝しています。今回もどうかよろしくお願いします」


 ゴーグル型の眼鏡をかけ首から複数のデバイスをぶら下げた、いかにもナード然としたレイヤードカットソーの青年が片手を上げた。

「俺は市ノ瀬カイル。よろしくお願いしまーす。主にモンスターの素材いじりなんかをやってて機材の面倒みることも多いかな。あ、あんたにはマジで感謝してる。マジですげえよあんた。つかデケェな!巨人か?」  


「三年、藤咲モモナです。……本当に、ありがとうございました。私、あの子の手を離しちゃって……もうダメだと思ってました。今度は絶対に絶対に離しません。久間川さんは、ヒーローです!」  

 緩くウェーブした明るい色の髪をバレッタでハーフアップにまとめた小柄な学生が、潤んだ瞳でレイジを仰ぎ見る。その熱烈な感謝にレイジは困惑し鼻の頭を掻いた。


「……竹田ユウトです。田沖さんと同じ、二年です。……その、ありがとうございました。僕は――あの時、怖くて動けなくて。田沖さんが連れて行かれるのを、ただ見てることしか……。助けてくれて、本当に、ありがとうございます」  

 短髪で爽やかなスポーツマンタイプの引き締まった体格の青年が小刻みに震える指を抑えるように組み、絞り出すような声で頭を下げた。


「ゼミ長の九条シューマです。一応エキスパートライセンスを取得しています」  

 最後にどこか浮世離れした雰囲気を纏った青年が丁寧な所作で一礼した。長い髪を後ろへ流し、思索にふけるような独特の静謐さを湛えている。


「噂で貴方の仕事ぶりは聞いています……改めて御礼を申し上げます。田沖くんを救っていただきありがとうございました。どうかお手柔らかに、久間川さん」

 九条が四年生ながらゼミ長を務めているのは、数か月前の調査で先代のリーダーだった大学院生が()()したためだという。そんな深刻な死亡事故が起きてからまだ間もないというのに通常運転の講義のように再調査の準備を進めるゼミの空気に、レイジは内心で慄然とした。労基はなにをやっている。公務員だからか?教育機関は管轄外なのか?行政は仕事をしろ。何にせよやはりこいつら頭のネジが何本か外れているらしい――。


 橋広教授が苦笑しながら一部学生の反応をなだめるように手を上げた。


「久間川さん、ほんとうによく来てくれました。……さて、皆。これからフィールドワークの打ち合わせに入る。彼のアドバイスは教科書に載っている内容よりも重いと思って聞くように」

 教授の言葉を合図に、打ち合わせが始まった。

 ホワイトボードに投影されたのは、中層第15エリアから第18エリアにかけての詳細な等高線図だ。レイジはそこに、JASROの公的な地図には載っていない「モンスターの通り道」や「魔素の吹き溜まり」を、太い指先で画面をなぞるような無造作な動作で指摘していく。


「……第16エリアのここ、北西の岩壁。ここは午後に魔素の逆流が起きる。巻き込まれたら慣れない奴は酔う。避けて通ったほうがいい。……それから、この付近のキャンプ地候補。水場があるが、夜はダチョウの水飲み場になる。刺激しなければ問題ないが寝込みを襲われたくなければ、じゅうぶんに離れて設営しろ」

「ですが、久間川さん。今週のサーベイデータでは、その地点の魔素安定度は――」 

 とリヒトは反論を試みた。


「自信があるならそのデータの通りに歩け。俺は止めないよ」

 レイジの他人事のような一言にリヒトは言葉を失い、拳を握りしめた。

 その時だった。


「……すみ、すみません」

 震える声で手を上げたのは、先程から隅の椅子に強張った表情で座っていた竹田ユウトだった。その顔は青白く手元のタブレットを持つ指先が小刻みに震えている。


「先生……僕、やっぱり参加できません。あの羊獣プロバトンの足音が、豚鬼オークの目も……頭を離れなくて、僕は、あそこに行くのが、怖いんです。夜も、眠れなくて……」


 周囲の学生たちが冷淡に、あるいは同情的にユウトを見つめる。

「臆病者は不要だ」と蔑むように見下すリヒト。

「そんなこと言わないで行こうよ……行くよね?一緒にアメリちゃんを守ろ?約束したよね?(していない)ねえ……ねえ!」と次第に語気を荒げてゆくモモナ。

 

 レイジはユウトの前まで歩み寄って屈みこむと、その震える肩を大きな手でしっかりと掴んだ。

「きみ。……今の言葉、本気か?」

「は、はい……ほんとうにすみません、僕は……すみません」

「いや、謝る必要はない。竹田くん……君は完全に正しい選択をした。この中で、君が一番賢明だ。何一つ間違ってはいない」


 レイジの言葉に、部屋全体が静まり返った。  

 リヒトや他の学生たちが沈黙する中、レイジはユウトを正面から真っ直ぐに見据えて「いいんだ、俺にはわかってる」と言うように大きく頷いて肩を軽く叩いてやる。

 そして内心で思う。フフ、これでひとりは足手まといが減る。幸先が良いじゃないか。万歳。

(事故があった後でまたすぐホイホイ行こうって奴のほうがどうかしてる。正気な奴もいるじゃないか。よかったよかった)

 竹田は涙ぐみ、救われたような表情で、何度も何度も頭を下げた。


「……さて。賢者が抜けたことで、残りは死を恐れない勇者ばかりになったわけだ。――特にお前だ。考え直す気はないか?次も無事とは限らんぞ」

 そう言ってアメリに向き直り見おろすレイジ。


「大丈夫です、心配いりません。久間川さんがいれば、深層デプスでも安心ですよ!」

 アメリの屈託のない、しかし全く危機感のない笑顔にレイジは溜息をついた。それを見るリヒトの視線が不快げに尖ってゆく。

 レイジはその視線に気づかず話を打ち合わせに戻した。


 市ノ瀬カイルが手元の端末から独自の解析データをホワイトボードにオーバーレイさせた。

「久間川さんの指摘通り、第16エリアの『逆流』は昨夜のエーテルグラフの異常アノマリーとも整合する。位相のズレがこの等高線図の歪みと一致してる……。あんた、よくこれ知ってたな。実際食らったんスか?」

「何度かな。慣れればどうってことはない。それより、その解析速度……JASROの標準シークエンスより速いな。自分で組んだのか?」

「へッへッ、趣味ッス」


 次に口を開いたのは佐伯ミレイだった。

「事前に提案いただいた通り、物資リストを修正しました。レトルトを減らし、岩芋素材と乾燥肉を三単位追加。これで総重量を5%削減しつつ、カロリーを維持できます。第18エリア付近の環境負荷による変質リスクも考慮しました。どうでしょう」

「……いい判断だ。よく考えたな」

「恐縮です」


 レイジは内心で少しだけ肩の荷が下りるのを感じていた。

 あらかじめ危惧していたよりもメンバーの理解力は高い。

(正気かどうかは疑わしいが、こいつら基礎知識はあるようだ。まるきり素人ってわけでもない)

 

「それで今回の調査対象ですが……」

 橋広教授が壁面ディスプレイの表示を切り替えた。そこに映し出されたのは夜間、黒い森を背景に写された不鮮明なシルエットだ。


「現在のところ、正体は不明です。高尾湖周辺で複数の目撃報告がありますが、既知のどのモンスターにも該当しない。足跡は二足歩行型。現れる際、周囲に『奇妙な静寂』が訪れるという点だけが共通しています」

「静寂……。鳥獣の声が完全に消えるような、不自然な凪か」


 レイジが呟くと、ゼミ長の九条シューマが細い顎に指を当てながらディスプレイをみつめた。

「フォルムから推測して……これだけ解像度が低いと確かなことは言えませんが、前肢と思わしき部位の異常な発達が気になります。単なる歩行や登攀、打撃用の筋肉ではないかもしれません。魔狼ルプスの咽喉構造や銀糸白鳥メロディウムスワンの嘴といった共振器官との類似を考慮するべきでしょう」

「具体的に言うと?」

「そうですね……とても()()()()かもしれません」

「ふむ。耳栓でも用意していくか」


 そう言ってレイジは剃りたての顎を撫でた。

 ホワイトボードのマップを眺めながら事前に考えていた完全な「観光ツアー」プランを再考する。

 鉄道(GCR)で大回廊をパスし、中層駅セントラルステーションから探索者ダイバーたちが踏みしめてできただけの道から外れない過保護な日程から多少は「荒れる」ルートへ。

 大型モンスターとの遭遇について注意すればいけるだろう……。


(あとは……人間関係が円満にいけば、今回の仕事は案外楽に終わりそうだ)


 そんな甘い考えを脳裏に浮かべた。

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