エピローグ 医療センター
数日後、八王子統合医療センター、特別病棟。
久間川レイジは、清潔なシーツの匂いが漂う白いベッドの上から窓の外をぼんやりと眺めていた。
視界に入るのは、どこまでも視線が抜ける穏やかな八王子の広い空だ。そよ風がカーテンを優しく揺らし、遠くで鳴く鳥の声が微かに聞こえてくる。
平和、安全そのものの光景。
レイジの身体は骨折も魔素熱傷もほぼ完治し退院を待つだけだった。
コンコン、と控えめなノックの音が響いた。
「こんにちは。久間川さん、お加減いかがですか?」
ドアを開けて入ってきたのは、白衣を纏った田沖アメリだった。
彼女はいつものたぬき顔に優しい微笑みを浮かべ、手に持ったカルテを胸に抱えながら、ゆっくりとベッドの傍らまで歩み寄る。
「……ああ。悪くないな」
レイジはのんびりした声で答えた。
アメリが生きている。モモナもゴンの仲間たちも乾中尉たちの迅速な搬送によって命を繋ぎ止めた。本当に良かった。
アメリはベッドの横に立つと、温かな体温を感じさせる手で、レイジの大きな肩にそっと触れた。
「よかった。本当に、無事でよかったです……」
その声は安堵と慈愛に満ち、瞳にはレイジの身を案じる涙の膜が浮かんでいた。彼女はゆっくりとベッドの上に膝を乗せた。そのままレイジの体の上に乗る。
「じゃあ……続きをしましょう」
アメリはレイジの腰の上にまたがると眼鏡をはずし、白衣を脱いだ。
広く分厚い胸の上に両手をつき優しく撫でる。
「おい、おまえ……いったい何の真似――」
レイジが困惑し、アメリを押し返そうとしたその時。
アメリが笑った。
その口内からのぞく歯は、全てが真っ黒だった。
そして白目まで闇のような漆黒に塗りつぶされたヌメヌメとした眼球が
ギュリギュリギュリギュリ。ギュリギュリギュリギュリ。
ギュリギュリギュリギュリ。ギュリギュリギュリギュリ。
異様な速さで、不規則に回転していた。
「ラウンド3ですよ」
というとこでレイジは目が覚めた。
荒い呼吸。バクバクと心臓が肋骨を突き破らんばかりに激しく脈打ち、全身が冷たい汗に濡れている。
レイジは震える手で口元を押さえ、乱れた呼吸を整えようと必死に空気を吸い込んだ。なんだあれは。勘弁してくれ――。
そのとき、何の前触れもなく病室のドアが無遠慮に開け放たれた。
「ウオアアアアアアッ!?」
悪夢の残滓に精神が敏感になっていたレイジは、反射的にベッドから飛び上がらんばかりに驚いて悲鳴を上げた。実際ちょっと浮いた。現実では完治には程遠い顔や固定された腕がズキズキと痛む。
ノックもなしにドアを開けて入室したのは、FENSの雨志田社長と雨志田ソウヤの二人だった。
レイジのあげた悲鳴に来訪した二人も負けず劣らずに驚き
「ぬああッ!?」「ほおおぉッ!?」
と奇声を上げた。おっさん三名による驚愕の連鎖。
直立し向かい合った三匹のマーモットが叫んでいる光景に近い。
互いにどうにか動悸を落ち着ける。
「……はぁ、はぁ……」
「おい。なんだ今のは。心臓止まるかと思ったぞ」
ソウヤが「びっくりした」と胸を押さえながら、荒ぶるレイジを怪訝そうに見つめる。
リュウスケ社長も、手に持っていた見舞いの高級フルーツセットを危うく落としそうになりながら、乱れたネクタイを直した。
「やあ久間川くん、元気そうでよかった」
「次はノックをお願いします」
レイジは枕に頭を沈め、ようやく落ち着き始めた鼓動を感じながら、力なく懇願した。
怪我の容態、会社の近況、障害の発生したネットワークの状況について雑談した後、しばしの沈黙――ソウヤが深々と頭を下げた。
「……レイジ。本当に、すまなかった」
いつもの軽口はない。ソウヤの声は沈み、絞り出すような響きだった。
「俺が嫌がるお前を送り出したせいでこんなことになってしまった。無茶をするなと言っておいて無茶をさせる結果になった。……本当にすまない」
リュウスケ社長も痛々しい包帯姿の部下を見つめて頭を下げた。
「私も謝らせてくれ。会社としての利益や、きみのセカンドキャリアのことばかりを考えて、現場の危険を見誤ってしまった。なんとお詫びしたらいいかわからないよ、久間川くん」
いつもレイジを案じていた二人の、偽りのない自責の言葉。
レイジは天井を仰ぎ、頬に残った灰化の跡が引きつるのを自覚しながら、ひび割れた唇を歪めてどうにかして笑った。
「やめてください。そんな殊勝な顔をされたらボーナス増額を要求しにくくなる」
「レイジ……」
「こんなこと誰にも予想できませんよ。誰の責任でもないです」
レイジは無事な右手を少しだけ動かして、二人を制した。
彼らはわざわざ中層ステーションまで迎えに来てくれた。レイジにとってはそれで十分だった。
「まあ……あの騒音と耳栓だけは二度とごめんですがね。それにあの若い連中が生きて戻れて良かったですよ。ちょっと変わってはいるが良いやつらだ」
レイジが努めて明るく言うと、ソウヤは少しだけ表情を緩め、持参した書類を確認した。
「……クライアントのほうは報酬を増額してくれるそうだ。ああ、もちろんここの入院費も治療費もむこうで持ってくれる。やっぱり金持ってるなムサマは」
「今は体を治すことだけに専念してほしい」と、社長が言葉を添える。
「そうだ。貯まってる有給もこの際全部使って、二ヶ月くらい入院しとけよ」
ソウヤのさも当然のように行われた提案に、レイジは不審そうな表情を浮かべた。
「有休……? 一部だけでも傷病休暇にならないんですか? これ、仕事中の怪我でしょう」
至極まっとうな疑問だった。社長も首を傾げ、ソウヤを問いただす。
「そうだよソウヤ、怪我の療養に全部有休をあてるなんておかしいね。労災なわけだし会社としては特別休暇なり傷病手当なりを……」
「いや社長、いい機会ですからこの際、有休を全部使い切らせたほうが良いんですよ」
ソウヤは深層の氷河のように冷たい微笑を浮かべた。レイジは嫌な予感に身を固くする。
「社長。こいつが有休使って、普段何してるか知ってますか?」
「そんなの本人の自由だろう。当然の権利だ。いちいち何のためかなんて確認しないよ」
「なに経営者の鑑みたいなこと言ってるんですか。……おいレイジ。おまえ、この前の四連休、何してた?」
「ん? ……深層に行ってたが」それがどうかしたのか、と言いたげな顔。
「ふあ?」社長が、間の抜けた声を上げた。
「久間川君……仕事だけではなく、休みの日も深層に潜っているのかね?」
「ええ、まあ。前から気になってた山を登ってみたくて」
と笑顔で答えるレイジ。
ソウヤは「ね?」と言わんばかりに、社長を横目で見て深く溜息をついた。
「こいつはね。有休を与えると、趣味の登山と称して深層へ飛び込む馬鹿なんです。だから、今回の入院期間中に有休をすべて吐き出させて、スケジュール的にダンジョンへ入れないように制限しておくのが合理的な安全管理なんです」
「……なるほど。一理あるね」
と社長は頷いた。
「そういうことなら……仕方がないね」
社長の瞳からそれまでの罪悪感と思いやりがふっと消え、冷酷な上司の――あるいは看守の目に変わった。
「……ああ、そうだ。次の有給発生日はいつだったかな。久間川くん、君だけは今後、付与される有休の日数を年間で計『24時間』にしよう。すぐに就業規則を改定しないといけないね」
「……は?」
今度はレイジが呆けた声を出す番だった。年間24時間?1440分?
「社長……正気ですか? それ、労働基準法とか、法律以前にその……人権的に問題が」
「特例だよ。君を死なせないための『FENS安全管理特別規定・久間川条項』だ。ソウヤ、弁護士と社労士に連絡を入れなさい。ダンジョン内活動における安全管理を最優先とした、限定的な権利制限の妥当性について検討させる」
「了解です、社長」
ソウヤの口角が残忍に吊り上がった。
「お、おい……冗談だろ……?」
レイジは顔を青ざめさせ、かつての岳友とその叔父を交互に見た。
灰の窪地で彼を追い詰めた怪物の執念も凄まじかったが、目の前の冷酷な男たちの善意の暴走も、怪物に匹敵する恐ろしさでレイジを絶望させようとしている。
フィールドエーテルネットワークシステムズ。
ダンジョンのインフラの一部を支えるこの小さな会社は今、その「ブラック企業」としての本性を、容赦なく剥き出しにしようとしていた。
「そんな、あんまりだ……」
病室に、自由を奪われようとしている山男の悲痛な呻きが虚しく響いた。
一方そのころ。
同じ病院の別のフロア、藤咲モモナの病室には、田沖アメリと天宮リヒトが見舞いに訪れていた。ようやく面会の許可が下りたのだった。
「ゼミの全員が一斉に来ると、他の患者さんの迷惑になるからね」
リヒトはいつものエリート然とした佇まいを少しだけ和らげ、店員に頼らず自分でセレクトして持参した生花を窓際の瓶に丁寧に活けながら言った。
「今日は僕たちだけだ。他のみんなも後で来るよ」
アメリはベッドの傍らに座り込み、モモナの包帯が幾重にも巻かれた手を避けて、その細い腕にそっと自分の手を置いた。
「……モモナさん。ほんとうに、よかったです。生きててくれてありがとうございます」
彼女の大きな瞳には、今にもこぼれ落ちそうな涙が溜まっている。
「私は明日も来ます! 毎日来ます! 病院に住みます!」
鼻をすすりながら鼻息荒く宣言するアメリに、ベッドの上のモモナが力なく、しかし優しく微笑んだ。
「ときどきでいいよ……アメリちゃん。私、寝てるだけだし」
モモナの左目には眼帯が痛々しく当てられている。露出している右目も、毛細血管が浮き出て不気味なほど赤く染まっていた。あの瞬間、限界を超えた魔素をその身に循環させた代償は、彼女の視神経に深刻なエーテルショックの爪痕を残していた。
それでも生き延びた。灰の窪地で散るはずだった命はこうして文明の光の中にいた。
「うっ……」
不意にモモナが苦しげに顔を歪め、細い手で胸元を押さえた。
「ああっ、大丈夫ですか、モモナさん!? 痛みますか? 苦しいですか? 看護師さんを――」
慌てて立ち上がりナースコールに手を伸ばそうとするアメリを、モモナが比較的軽症なほうの手で制した。
「大丈夫……ちょっと痛いだけだから。天・宮・くんに折られた肋骨が、ズッキズキ痛くて……呼吸をするたびに凄く痛くて、寝返りうつのも一苦労してるだけだから……気にしないで。ほんとうに大丈夫だから」
モモナはわざとらしく言葉を区切りながら、窓際で花を弄っているリヒトをチラチラと見ながら言った。リヒトがゆっくりと振り返る
「し・か・た・ないだろ! あの状況じゃ、それくらい強くやらないと効果はないんだ! いちいちイヤミったらしいんだよおまえは!」
リヒトは怒鳴り返した。
停止した心臓を動かすため、彼はただ無心に渾身の力を込めた心臓マッサージを繰り返していた。モモナの華奢な骨格にとって、それは文字通り「骨の折れる」救命活動となったのだ。
「天宮先輩……病室です。しずかに」
真剣な表情のアメリが唇の前で指を立ててリヒトをたしなめる。
「そうだよ。静かにして天宮先輩」
ここぞとばかりに便乗して澄まし顔をするモモナ。
「お前…くっ……!」
モモナへの苛立ちと「しずかに」と言った時のアメリに感じた可憐さに絶句するリヒトに対し、アメリはふっと表情を和らげ、モモナの腕を撫でた。
「……でも、モモナさんもやめてください。天宮先輩が骨を折ってくれたおかげでモモナさんは今、生きてるんですから」
アメリの真っ直ぐな言葉に、モモナは「わかってる」と照れくさそうに視線を逸らした。
リヒトもまた、フン、と鼻を鳴らして窓の外を見やったが、その横顔には戦友の命を死神から奪い返したという隠しきれない誇らしさがあった。
「はあ……僕は先に帰るよ。新しい魔導剣の調整があるから。次は食事でもしていこう、アメリ」
リヒトはいつもの気取った仕草で髪をかき上げると手を振って病室を後にした。
ドアが閉まり、部屋に静寂が戻る。
「あのね、アメリちゃん」
モモナがぽつりと、柔らかな光が差し込む窓へ視線を向けたまま口を開いた。
「私、基地の医務室に運ばれるまでに2回、心臓が止まったんだって」
そのあまりに淡々とした告白に、アメリは喉を詰まらせた。
「……聞きました。私の心臓も止まりそうになりました」
「ふふ。それでね、たぶん止まったときだと思うんだけど、当然そのときの私、意識なんてないよね?」
「はい」
「たぶん、死んだあとにいく場所みたいなところにいたんだ。そこでもう死んじゃったおばあちゃんと会った。私、すごく可愛がってもらってたから、それでかな」
アメリは息を呑み、モモナの次の言葉を待った。
「そしたらおばあちゃん、なんだか困ったように笑っててね。『もう来ちゃったの? はやいはやい。まだダメだよ』って言われて……」
「ほんとですよ! 行っちゃダメですよ、絶対!」
アメリが身を乗り出して、モモナの腕を強く握った。
「ああダメかぁ、って思って。じゃあ帰るね、って帰ったんだ。それがたぶん1回目」
「良かったです……本当に良かった……」
アメリの大きな瞳に、熱い涙がじわりと浮かぶ。親友の生還が単なる医学的な奇跡ではなく、もっと深い場所でのなにかだったのだと感じて。
「それでね、2回目に止まったときもおんなじところに行って、またおばあちゃんに会ったんだけど……」
モモナが少しおかしそうに肩を揺らした。
「二度見された」
「二度見」
「おばあちゃん、めちゃくちゃビックリしてた。えっ!? またぁ!? みたいな。さっき帰ったでしょ?リピーター?って顔してたの」
モモナの真顔での再現に、アメリの鼻をすする音が止まった。
「モモ、ナさん……」
うつむいたアメリの肩が、小刻みに震え始める。耐えようとすればするほど、生死の狭間での「二度見」という光景が脳裏から離れない。
モモナもまた、抑えきれない笑いが込み上げてきた。ダメ、笑っちゃ、ダメ――
「はは、あはははは!いっ、 痛い、ほ、骨が……っ、あははははは!」
「二度、二度見て……! うっ、ぐ、ぐふっ、あはははは!!」
抱き合って笑い転げる二人の頬を、涙が幾筋も伝っていく。
病室に、折れた肋骨の痛みさえも吹き飛ばすような二人の止まらなくなった笑い声がいつまでも響いていた。
モモナの病室を出た天宮リヒトは、独りエレベーターに乗り、一階の総合ロビーへと降り立った。
自動ドアから外へ出ようとしたその時、ロビーの片隅にある喫茶スペースで、見覚えのある傷顔の中年男を見つけた。その男――ゴンは、レイジを見舞いに来たらしい他の探索者たちと立ち話をしていた。
リヒトが足を止めると、ゴンがこちらに気づき、片手を上げて近づいてきた。
「よう。兄ちゃんもクマちゃんのお見舞いかい?」
「え? ええ……まあ」
そのまま真っ直ぐ帰るつもりだったリヒトは言葉を濁した。
自分が「下請けの作業員」と見下していた相手の死力を尽くした瀕死の姿に、自分がいかに無力だったかを思い知らされた直後だったからだ。とても顔を会わせる勇気がない。
「聞いたぜ。クマちゃんといっしょにあの野郎をブチのめしたんだってな。若いのにたいしたもんだ」
ゴンは屈託なく笑い、リヒトの肩を分厚く硬い皮の掌で無造作に叩いた。
「いえ、僕は何も。久間川さんと、今もここで入院している友人が――彼女が命を懸けてやってくれたことです。僕は……」
リヒトは力なく首を振った。立ち上がり、渾身の一撃を振るったことだけは覚えているがそれだけだ。気がついたときには何もかもが終わっていた。自分はほとんど状況に寄与できなかった。
「まあ、そう言うなって。おかげで俺も仲間の仇が取れたんだ。ありがとうな、兄ちゃん」
ゴンが、真剣な表情でリヒトに向かって頭を下げた。
「…………!」
リヒトは羞恥に身を硬くした。自分が彼らをどう評したか。その傲慢な記憶が脳裏を掠める。目の前の古強者は何も意に介さず、ただ共に戦い生き延びた一人の戦友として接してくれている。
ゴンはなぜか硬直したリヒトを不思議そうに眺めた後、再びひらひらと手を上げた。
「じゃあな。またどっかで会ったら、よろしく頼むわ」
去ろうとするゴンの背中に向かって、リヒトは弾かれたように姿勢を正し、深々と頭を下げた。
「こちらこそ、ありがとうございました!」
「おう」そこで足を止めたゴンが、思い出したようにリヒトに向かって拳を突き出す。
「え?」
戸惑うリヒトに、ゴンは「ホラホラはやくはやく」と催促するようにグイグイと拳を突き出した。
リヒトはぎこちない動作で、自分の拳を握り、恐る恐るゴンの分厚い拳にそれをぶつけた。
ゴツン、と乾いた音。
ゴンが満足げに笑ってロビーを去っていく中、リヒトは自分の右拳をじっと見つめた。そこには今まで感じたことのない、力の実感が宿っていた。
武蔵野魔導大学、橋広研究室。
夜の帳が降りたキャンパス。2号棟の一室の窓に明かりが灯っていた。
室内では橋広教授がデスクの椅子にぐったりと深く沈み込み、疲れ果てた様子で眼鏡を外して眉間を揉んでいた。
デスクの上には今回の調査で得られたデータやカメラの画像がわざわざ紙にプリントアウトされて乱雑に積まれている。
コン、とドアがノックされ、九条シューマが入ってきた。彼は手にした缶コーヒーを、書類をよけて教授のデスクに置いた。
「お疲れ様です、先生」
「ああ。ありがとう、九条君」
橋広は力なく微笑み、缶のプルタブを引き抜いた。
カフェインの刺激が過熱した脳をわずかに鎮めていく。
「委員会の方はどうでしたか」
九条が探るように問いかけると、橋広は重いため息をついた。
「散々だったよ。さんざん締め上げられた。あの『白鬼』の検体を確保できなかったのが、よほどお気に召さなかったらしい。JASROの上層部は、データよりも現物を欲しがるからね。メンバー全員が生還したことの方をもっと評価するべきだと思うんだけどなあ」
「白鬼?」
「ああ。とりあえずそういう仮称になるらしいよ。正確には白大鬼かな。色違いの命名はまだフランス式だから。今回の件を受けて、対策の叩き台もうちが担当することになりそうだ。竹田君に頑張ってもらおうと思っているよ」
九条は、研究室の奥の席で深夜まで熱心にディスプレイに向かう竹田ユウトの背中を思い浮かべた。
「彼なら、喜んでやってくれるでしょう」
九条はそう言うと、少し表情を和らげて続けた。
「藤咲さんも、ようやく面会許可が下りるまで回復しました」
「うん。ほんとうによかった。彼女の命に比べたらアトモスベイルなんて安いものだよ」
いくら高価といってもしょせんただの布さ、と橋広は微笑んだ。
「ええ。しかし本当に幸運でした。中層基地のラボに、鷲尾博士がたまたまいらしていなかったらと思うとゾッとします」
「うん?うーん……」
橋広が、どこか含みのある唸り声を上げた。
「先生?」
「……たしかに彼女のおかげで藤咲くんの命も助かったし、久間川さんの灰化も重症化は免れたんだけどね」
「なにか懸念が?」
「あのあと、博士からちょっと連絡があってね。久間川さんの素性を詳しく訊かれたよ」
「それは――」
九条の顔に緊張が走る。彼女の好奇心の対象になることが、人間にとって何を意味するかを彼は知っていた。
「まあ、適当にはぐらかしておいたけど」
橋広はコーヒー缶を傾け、残った苦い液体を喉に流し込んだ。
「……恩人を魔女の生贄にはできないからね」
夜の静寂が再び研究室を包み込む。
ダンジョン中層で起きた惨劇は調査記録へ姿を変えて収録され、同時に一人の男に向けられた魔女の関心が熾火のように熱を持ち続けていた。
Episode: "White Noise Out" — End




