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閉幕

 怪物の頸部スリットから放たれた魔操は、周囲の魔素を瞬時に超臨界流体化すると同時に「疎密」に干渉し限界点を超えた。極小で不可視な空間そのものの泡が発生する。


 発生した泡――虚無の泡(ヴォイドバブル)へ周囲の魔素が音速を超えて中心へと流入し、爆縮によって魔素が相転移を起こす。空間自体が耐えきれずに悲鳴を上げ、崩壊した泡は超音速の衝撃波と魔素放射エーテルルミネッセンスを発生させた。

 

 至近距離で衝撃波の直撃を受けたレイジは、反射的に魔素操作エーテルコントロールの身体強化レベルを防御に集中したおかげでかろうじて即死を免れたがそのダメージは甚大だった。

 咄嗟にクロスして顔面を庇った左腕の骨が複数箇所で折れる。乾いた音は肉体を伝導してゲルの詰まった耳の奥まで響いた。

 全身のいたるところの骨にも微細なクラックが生じ、肋骨が軋み、臓器は揺さぶられる。


 同時に発生した死の閃光が吹き飛ばされるレイジの顔面を掠めた。

 光を浴びた額と頬の一部の細胞で魔素が励起し、青白く発光。結晶のように硬質化――アッシュ化していき、ひび割れていく。


 何が起こったのか、自分が何をされたのかを何一つ理解できないままレイジの意識は消し飛んだ。

 橋広教授や武蔵野魔導大学資源工学部、異常構造解析学部の研究者たちがその場に居ればおおよその見当はついたであろう現象――魔素泡蝕エーテルキャビテーション


 怪物が最後まで温存していた近接戦闘用の隠し札。

 本来の遠距離無力化戦術では使用する機会が無かった能力。

 だが、正確に言えば「使いたくなかった」カードを切った怪物も無傷では済まなかった。

 

 爆縮熱と空間崩壊の反動は、発生源である怪物の肉体をも手酷く痛めつけていた。

 咆哮を放った首筋のスリットは、自らが生み出した熱量によって一部が融解し、炭化した組織が剥がれ落ちている。

 使用すれば自らの身を灼き、連続使用は不可能。

 トカゲが尻尾を自切するような攻撃手段だった。


「……ガッ!アァッ!」

 宙に投げ出され、地面に叩きつけられた衝撃と全身に走った激痛でレイジは覚醒した。肺から絞り出された空気を吸おうと反射的に大きく行った一呼吸ですら痛みを伴う。咳き込むような浅い呼吸を繰り返し歯を食いしばる。震える身体を無理やり起こし、次から次へと面白い真似をしてくれる愉快なクソッタレを睨む。


 レイジの殴打と自爆攻撃で傷ついた怪物は、うずくまったまま自らの損傷を堪えるように激しく震え、体液を周囲にビチャビチャと撒き散らしていた。

 怪物が意識を失ったレイジに即座にとどめを刺せなかったのは、自らの攻撃で負ったバックラッシュゆえだった。

「……ブブッ!ブリュッ!ブッ!」とどこから出しているのか定かではない音を出し震えながらゆっくりと立ち上がる。


(――よし。もうさっきの()の在庫はなさそうだな)


 至る所が痛む――痛まないところのほうが少ない体に鞭打って立ち上がる。

 力なく垂れ下がった左腕はもう指を動かしたくもない。右腕は上がる。拳を握れる。

 なんだか顔に灼けつくような痛みがあるがどうなってるのか。鏡は見ないほうが良さそうだ――つまり戦える。良し。

 目線で天宮リヒトと藤咲モモナを探す。先ほどの衝撃の範囲外に倒れていることに安堵したが……いや、()()()()()

 ということは自分がもう少し根性を出す必要がある。


 互いに一歩一歩踏みしめるように近づき、手の届く距離で向かい合う。


 怪物の発振器官を失ったその腕は、もはやただの肉の塊――棍棒でしかない。しかしその圧倒的な質量と膂力はそれだけで十分な脅威だった。左腕は麻痺しているらしいことが唯一の救いだ。


「……じゃあそろそろ本番はじめるか、おい」

 怪物は無言で内部構造が一部露出した右腕を上げる。

 レイジも右拳を目の前に構えた。

 耳を塞ぐゲルの奥で、自分の鼓動が早鐘のように鳴り響く。


 激突。


 それは洗練された戦闘には程遠かった。

 怪物の巨大な四本指の拳が、レイジの横面を薙ぎ払う。灰化した頬の皮膚が剥がれ、陶器が割れるような音と共に、レイジの鼻骨が折れた。

「ンっぐァッ!」

 レイジは鼻血を迸らせながら残った右拳を怪物の喉元へ叩き込む。

「ギュビョッ!」

 怪物の首のスリットの残滓から体液が飛び散る。

 両者は肉と骨を軋ませ、ただぶつけ合い、足を止めた技巧も何もない地獄のような殴り合いを開始した。


 数分で勝敗の均衡が徐々に傾いていく。当然だった。

 怪物はレイジにリーチ、重量、体格による圧力ではるかに優越していた。

 単純な現実――『デカいほうが強い』に無策で抗うのは難しい。

 次第に防戦一方になるレイジ。三発打たれて一発打ち返すのがやっとになり、やがて一方的な殴打が始まった。


 バチンッ、ベチィッ、という湿った音と共に重い衝撃がレイジの肉体に刻まれるたびに灰化した皮膚が砕け、唇は裂け顔は腫れ上がり、視界は狭まっていく。

 幾度目かの殴打を受けた瞬間、突然右耳に異音が発生し、世界に音が戻った。

 衝撃で耳栓が脱落したらしい。殴られる音がクリアになる。

 殴られるたびに後ずさり、よろけ、かろうじて立ち続け――遂に打ち倒された。

 怪物の眼球が、歓喜するようにギュリギュリッと異様な速さで回転し、そして逆回転する。左右の目の回転方向は違っていた。


 レイジは地面にうつ伏せに倒れ、苦しげな呼吸を繰り返しながら怪物に尻を向け四つん這いになった。怪物の視界から隠しながら震える右手で腹の前のウェストバッグに手を入れる。手触りで中身の形を確認し――スイッチをガチリと押し込む。

 股の間から残った力を振り絞って怪物に向かって放った。


 怪物の背後に転がったそれはレイジの愛用品であるシングルバーナーの心臓部――『MGWパイロレギュレーター3』専用の高濃度魔素が充填された燃料カートリッジだったもの。

 魔素を吸収・圧縮する特性を持つ深層の鉱石、紅涙玉レッドティアをカッティングして成形されたカートリッジは前夜、市ノ瀬カイルの手によって発火パルス機構と「直結」され、簡易指向性爆弾《IED》へと改造されていた。

 

 ダクトテープと観測機器をバラして調達したありあわせのパーツで組まれた即席爆弾の機械式タイマーが、カチカチカチと死を刻む三段階のクリック音を響かせた。

 レイジは素早く地面にうつ伏せになりブーツの底を怪物に向けて揃え、口を大きく開きかろうじて動く右腕で耳を塞ぎ頭部を庇った。

 怪物は後ろを振り返り、それからレイジを――

 

 ――至近距離での爆発。

 

 凝縮された深層の高濃度魔素が一瞬で解放され点火、炸裂した。

 発生した爆炎のエネルギー総量はリヒトの魔導剣、スカーレットエクスカリバーシリーズ『ファイアジャッジメント・マーク2』ナイトオブプロミネンスエディションの最大出力の十倍を超えた。スカーレットエクスカリバーシリーズ『ファイアジャッジメント・マーク2』ナイトオブプロミネンスエディションの最大出力の十倍以上の破壊力の爆風が怪物の背を襲う。

 怪物を盾に使い爆風を防ごうと意図したレイジの体も、結局は諸共に吹き飛ばされ宙を舞った。


 久間川レイジは、再び覚醒した。

 視界は赤黒くかすみ、肺に吸い込む空気は焼けた肉の臭いと、オゾン、そして焦げた土の乾いた匂いが混じり合っている。


(……ええと――俺は何をしてたんだかな。ここは……ああ、そうか。やったか)

 朦朧とした意識で考え――全身を走る激痛が、思考を寸断する。もはや指一本を動かすことさえもままならない。咳をする気力すら起こらないほどの倦怠感。

 左腕は完全に感覚を失い、右腕も痺れと痛みで動かせない。顔面を侵食した「灰化」は、ひび割れた隙間から血が滲み続けている。


(もうケツを拭く力も無いな――。)


 満身創痍。レイジは喘鳴のような呼吸をしながらただ、空を仰いだ。

 深層の高濃度魔素を燃焼させた爆炎を、奴の肉体を盾にするようにして至近距離で叩き込んでやった。あれで死なない生き物など存在するはずがない。はい勝った。


 ほんものの静寂。

 世界は死んだように静かになった――。

 ――だが、その静寂の底から不気味な振動が伝わってきた。

 地面を伝わってレイジの動かない壊れた肉体に直接響く、重く湿った音。


 ずる  べちゃ

 ずる    べちゃ べちゃ


 腐った布を引きずるような、粘りつく音。

 レイジは渾身の力をこめて首を数センチ無理やり動かし、腫れあがり狭まった視野の端で音の方向を睨んだ。


「……嘘、だろ……」

 混濁する意識の中で、驚愕と絶望が死神の様に冷たく喉を締め上げる。


 そこにいたのは、レイジにとっての死神だった。

 左腕が肩口から消失した怪物の背面は、爆発によって至るところが大きく抉れ、黒く焼け爛れた組織の隙間からは脊椎が大きく露出している。

 焼け落ちた背面の筋肉組織の間隙から内部組織が覗き、皮膚組織が腰布の様に垂れ下がっていた。何も知らぬ者が見ればアンデッドとしか思えないだろう。

 死骸がなお動いているかのような足取り。


 それはもはや生物の動きではなかった。

 ギクシャクと左右に揺れ、前後に傾ぎ、体組織をボトボトと零しながら――しかし怪物はレイジへとすこしづつすこしづつゆっくりと緩慢に、全力疾走するナメクジのように確実に近づいてくる。

 怪物の顔の半分は溶け崩れ、残った一つの眼球が微動だにせずレイジを凝視している。その壊れた喉がギュミッ、と鳴った。


 ずるべちゃ。

 ぞるぶちゅ。


 死が、一歩、また一歩と、動けぬレイジとの距離を詰めていく。

 レイジは、仰向けに倒れたまま、自分の顔を覗き込む相手を見据えた


「……おい、たいへんそうだな。ざまぁみろ。クッ、ハハッ」

 レイジは、切れて血まみれになった唇を歪ませ、死神を笑ってみせた。

 全身を苛む激痛。感覚のない左腕。それでも彼は、震える右腕を強引に持ち上げようと、精神と肉体の限界を超えた気合いで筋肉を収縮させた。


「じゃあ……ラウンド2だな」

 呼応するように怪物がクパ、と歯が残り少ない口を大きく開いた。その瞬間。


 怪物の頭部の左半分が、内側から爆発したように消失した。

 飛び散った白い体組織と黒い粘液が、ビチャビチャとスコールのようにレイジの全身に降り注ぐ。遠雷のように轟く銃声は遅れてやってきた。


 頭部の半分を失った怪物が静止した瞬間、次はその胸郭が爆ぜ、真ん中に向こう側の景色が見えるほど巨大な穴が開口した。二発目の銃声がレイジの右耳を震わせる。

 重く湿った音を立てて怪物は崩れ落ち、動かなくなった。おそらく永遠に。


 ゼイゼイと荒い呼吸を繰り返しながら、レイジは全身の緊張を解き、固く目を閉じた。誰がやってくれたのかは知らないが――そいつには一杯奢る必要がある。


 ずるっ……ズル……。

 

 直後に泥を這うような音が近づいてくる。

 まぶたをきつく閉じていたレイジは、右耳から入り込むその微かな震動と音を感じ、絶望を通り越し――激怒した。あれだけの爆発を、そし致命の一撃と追加の致命の一撃を受けてなお、あの怪物はまだ自分と遊ぼうというのか?

 流石にしつこすぎる。なんなんだおまえは。もう会社を通してくれ。


「……いい、かげんに……しろ……!」

 レイジは血反吐と共に、掠れた声を絞り出した。

 眼球だけを動かし、残った殺意のすべてを込めて迷惑系モンスターを睨みつけようとしたとき、這い寄ってきた相手にガッと胸倉を掴まれた。


「久間川、さん。生きてますか?」

 這い寄ってきたのは、天宮リヒトだった。

 レイジは、焦点の定まらない目でリヒトを見やり、割れた唇を動かした。


「……死にそう」

 右耳でリヒトの震える声を聞きながら返した、嘘偽りのない本音だった。

 いまだ塞がったままのリヒトの耳にはその言葉は届かない。

 レイジの生存を確認し、ほっとした表情を見せたリヒトは次いでレイジの右耳に唇を寄せ、声を振り絞った。


「久間川さーん!藤咲を見てきまああああす!!」非常にうるさい。

 いやそっちの耳はもう聞こえるから普通に喋ってくれ、と伝えることもできずレイジはかすかに頷き、再び目を閉じた。


 それからどのくらいの時間が経ったのか。

 ペチペチと執拗に、皮膚が残ったほうの頬を叩かれる感触でレイジは薄く目を開けた。

 視界に入ってきたのは、緑の茂みだった。人間大の草木の塊が自分にのしかかって触手で自分の頬を叩いている。レイジは弛緩した意識の中でぼんやりと考えた。


(……なんだ、今度は植物系のモンスターか?もう好きにしてくれ)


「よう、生きてるか、クマちゃん」

 不意に聞こえてきたのは、聞き慣れた野太い声だった。

 カモフラージュネットに複雑に盛られた枝葉の隙間から、精悍な古強者の顔が覗いた。なんとモジャモジャモンスターではない。人間だった。


「ゴンさん……」

「こっぴどくやられたってツラだな、クマちゃん。最初誰かと思ったぞ」

「……ゴンさんが……仕留めてくれたのか……」

「ああ。なんかドッカンドッカンやってるのに気づいてな。何事かと思ったら、あのクソッタレがいるじゃないか」

 ゴンは倒れ伏した怪物の死骸を、冷たい憎悪のこもった目で睨んだ。


「矢部とボブの仇だ。あいつが現れそうなポイントを絞って、潜伏して待ってたんだ。あの距離から仕留められたのは運が良かった。ギリギリよ」

「……恩に着る……」

「何言ってんだ。クマちゃんからもらった『お守り』だからギリギリ届いたんだぜ」


 ゴンは笑いながら、タクティカルベストのポケットから一発の大口径狙撃弾を取り出して見せた。鈍く青光りする結界鋼バリアタイト製の弾丸。

 それは以前レイジがゴンに提供した、特注の長距離狙撃用完全深層弾(フルデプスジャケット)だった。

 中層以降の領域においては魔素の干渉によって弾道が安定しない通常の銃弾とは異なり、この深層素材をジャケットとコアに用いて作られた弾丸は濃密な魔素環境を切り裂き安定した精度で目標に到達する。

 ゴンが大物を狙うときの切り札として温存していた「お守り」だ。


「こいつが最後の一発だった。間に合って良かった。――それで、よ」

 ゴンは顎で少し離れた場所を指し示した。

 そこではリヒトが、地面に横たわったまま動かない藤咲モモナの傍らで

 焦げ付いたポンチョを剝ぎ取って声をかけ続けている。


「……あの兄ちゃん、耳が聞こえんのか? あんたを任せるとか何とか言われた気がするんだが、こっちの言うことはさっぱり通じてないようだぜ」

 ゴンは自分の耳をトントンと叩いてみせた。リヒトはまだ耳を灰色のゲルで塞いだ「無音の世界」に囚われたままらしい。


「ああ……俺も、左は聞こえん。メシを詰めてある」

「はあ? メシを詰めた?」

 なんだそりゃ、とゴンは笑った。


 その後のゴンの作業は迅速で的確だった。

 慣れた手つきで応急処置キットを展開し、出血個所を消毒しては救急パッドを貼り付け、火傷に保護ジェルを塗りたくる。

 折れ曲がったレイジの腕を、カーボンの添え木と強化粘着包帯で固定していく。

 正位置に骨の位置を修正される激痛が走るたびにレイジはこれまでの人生と会社を呪った。


「おい、クマちゃん。動くなよ。骨がズレたらひどいことになるぞ」

「ああ……腕はそれでいい。それより顔が痛い。どうなってる?」

「わかってる。魔素熱傷スカルドか。厄介なもんを食らったな」


 ゴンは生理的食塩水ベースの抗魔素中和剤――通称「聖水」スプレーをレイジの顔面に吹き付けた。

 ジュウワッ、と薬液が気化する音とともに硬質化した皮膚の亀裂から白い泡があふれる。右耳でその音を聞きながら、レイジは奥歯を噛み締め、声にならない呻きを漏らした。今はもうなにをされても痛い。ボーナスタイムだな。

 

「今やれるのはこれくらいだな。……しかし、あの化け物を相手に殴りあったのか。たいしたもんだ。さすがクマちゃんだ」ブハハ、とゴンが笑った。


 その時、1台の車両が灰の窪地に近づいてきた。

 ダンジョン内で車両を運用しているのは中層基地だけだった。どうやら橋広たちはうまく通信可能エリアまで到達できたらしい。道中無事だっただろうか……。


 現れたのは、高尾即応連隊のマークが入った高機動EV車両だった。不整地を低重心と高トルクで強引に踏み越え、泥を跳ね上げてレイジたちの近くで停車する。

 運転席でハンドルを握っていた陸軍中尉が隣の伍長へ命令する。周辺を警戒しろ。伍長はすみやかに助手席から飛び出し、小銃の銃口を周囲へ向ける。


「ちょっときつそうな美人の子も、眼鏡の可愛い子も無事っすよ、クマの旦那」

 伍長は周囲を警戒しながらも、ヘラヘラとした軽薄なノリで、血と泥と薬品にまみれたレイジへ声をかけた。

 レイジは唯一聞こえる右耳でその言葉を拾い、腫れ上がった瞼をわずかに動かした。コイツ、男に関してはどうでもいいのか。相変わらずだな甲斐伍長。


「……いぬい中尉。……わざわざ、来てもらって……すまんな」

 ドアを開け降り立った軍人を地面から見上げながら掠れた声でレイジが礼を言うと、乾は「戦場」を見回して事務的に応じる。


「我々は周辺偵察任務中に、《《偶然》》あなたたちを発見しただけだ。そういうことになります」

 ああそれと、と続ける。

「連絡してきた大学関係者たちは、別の車両で基地に移送中です。全員無事ですよ」

 そう言って微笑んだ。


 レイジは深く息を吐き目を閉じた。橋広やアメリたちの無事を聞き、ようやく自分の中で完全に緊張の糸が緩むのを感じた。


「おい、中尉殿。クマちゃんを運ぶなら、あんまり揺らさないように頼むぜ。へいへい、そっちの兄ちゃん――ああ聞こえてないんだったな。面倒だな」

 傍らに膝をついたゴンがレイジの肩を軽く叩いた。

「クマちゃんはデカいから、後ろの荷台だな。俺もそっちに乗るわ」

「……ああ。安全運転…で…」

 レイジが力なく応じ、張り詰めていた現場の空気が、生存の安堵と共に弛緩した、その時だった。


「……ダメだ! ダメだダメだダメだ!! 行くな藤咲!! 戻れ!!」


 灰の窪地に、切迫した声が響いた。

 天宮リヒトの声だった。少し離れた場所で藤咲モモナの救護に当たっていたリヒトが、必死の形相で叫んでいる。パンパァン!と強く頬を叩く音が連続して響く。


 レイジが目を開ける。

 リヒトがモモナの服を裂き、インナーを剥き出しにし、必死に心臓マッサージを行っていた。モモナの顔は土気色を通り越し、命が宿らない人形のようだった。最大出力のリミッター解除攻撃――その代償が、彼女の心臓を止めていた。


「おい、まずいんじゃないか……?」

 ゴンが険しい表情で立ち上がる。

「戻れ、戻れよ、藤咲……頼む!こんな、ダメだ、いやだ!」

 リヒトは一心不乱に彼女の胸にリズミカルに体重をかけ、繰り返し蘇生を試みていた。力なくモモナの体が揺れる。勝ったんだ。勝ったのになんで――。


 乾中尉が即座に車両の運転席へ戻り車両をモモナの傍へ寄せる。甲斐伍長もまた、ヘラヘラとした態度を消し担架を抱えて駆け寄る。

 断続的に聞こえるリヒトの悲痛な叫び声が、肉体の激痛よりもレイジの精神をきつく締め上げる。自分たちが掴み取った勝利が、高い代償を要求していた。高すぎる。


「グゥッ!……中尉、こいつを……どうか。頼む」

 乾中尉は、ゴンに手荒く荷台に放り込まれたレイジの血にまみれた眼差しをバックミラー越しに受け止め、短く応じた。


「全速で移送する。伍長、収容急げ! 学生、蘇生を続けろ!」

 指揮官の鋭い命令が飛ぶ。

 灰の窪地を背に、車両は死神の手から逃げるような猛烈な疾走を開始した。


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