開幕
国立武蔵野魔導大学生命科学部異常生態学科、橋広コウタ教授(53歳)は両腕を振り回し天を仰いで咽び泣いていた。
「あああああ!もうだめだ!こんな出来の悪い、裏口からも入学できないような程度の低い学生なんかを連れてきてしまったせいだぁーッ!私の人生はおしまいだ! 今まで生きてて良いことなんて一つもなかった!うわぁーッ!うわああああーッ!」
彼はアルクノス社の最新フラグシップモデルのポンチョを藤咲モモナに奪われ、ミドルレイヤー姿になっていた。
「ダンジョンで追い剥ぎ」という諺にもある通り、ダンジョン内での装備喪失とは生命の危機に等しい。
命を繋ぐ装備を強奪しようとする狂った教え子に対して彼は必死の抵抗を試みたが、お気に入りの毛布に執着するケルベロスのように迫るモモナの獰猛さの前にはあまりに無力だった。
今はレインウェアをバックパックから取り出しながら
「うぅ……恩知らずが……」「……羅生門……」とうめき、惨めに嗚咽を漏らしている。
彼の教え子たちも師と同様に罵詈雑言と呪いの言葉を投げつけあっていた。
「――特権階級気取りのクズが! 親の金で買った装備を見せびらかしてよぉ!」
「 早口で喋るのが気持ち悪いんだよ、このオタク野郎!アニメでも見てろ!」
市ノ瀬カイルと天宮リヒトが、お互いに掴みかからんばかりの勢いでろくに目線を合わせずに怒鳴り合っている。
田沖アメリは地面に座り込み、泥を握りしめながらチラチラと脇見をしながら地を叩いて泣き喚いた。
「もうやだぁ!家に帰りたい! 食べたい!美味しいカレーが食べたい! 」
九条シューマは大仰な身振り手振りを交えて情感いっぱいに、周囲に無差別な罵倒を繰り返している。
「この、青白い顔の馬鹿め! どこでそんなガチョウのような顔を覚えてきた!
呪わしい背中の曲がった毒ヒキガエルめ!この疫病神! 腐った血の中にできた腫れ物!卑しいエルフの皮、干からびた牛の舌よ!」
しかし彼らにはお互いの声が届いていない。
カイルが何を叫んでいるのか、リヒトがどんな罵倒を返しているのか。二人はただ、相手の目線と表情を読み取り、それに対して自分が持てる限りの語彙で感情をぶつけ合っているだけだった。
会話のタイミングもまるで嚙み合っていない。彼らはこのズレが「話が通じないほど錯乱し、互いの言葉を聞き入れず拒絶し合う醜い仲違い」という演目をどこからか眺める観客が楽しんでいることを期待していた。
久間川レイジは展開される「地獄絵図」の真ん中に無言で立ち尽くしていた。
彼には、彼らの声は聞こえない。彼らも、レイジの声を聞くことはできない。
足音も、風の音も、バックパックのストラップが服とこすれる衣擦れの音も、すべてが深い水底に沈んだ時のような、くぐもった無音へと塗りつぶされている。
聞こえるのは、自分の頭蓋の内側でゴーゴーと響く血流と軋む肉と骨の音。肺が空気が押し出す湿った呼吸音だけだ。
今彼らを繋ぐのは、時折交わされる意志の込められた視線と、絶望を装飾するための大仰な身振り手振りのみ。
彼らが行うことになったのはいわば『無線封鎖』だった。
(いったい何を言い合っているのやら)
ピッケルを杖代わりに突き、背中の荷物の重さに押し潰れそうになっている「絶望した哀れな護衛」を演じ続けるレイジは、昨晩の作戦会議の締めくくりを脳裏に思い浮かべた。
前夜、キャンプ地の空気は重く沈んでいた。
ミレイが調合した「灰色の増粘ゲル」が、容器の中で熱され、ゆっくりと粘性を増しながら冷めていく。その不気味な半流動体を耳栓として体内に注ぎ込む準備時間、それが彼らが言葉を交わせる最後の時間だった。
「正直、この計画の成功率はかならずしも高いとはいえませんね」
橋広はあまりに楽観的すぎる意見を述べた。
「全員が戦闘の専門家でもなく、推測に推測を重ねて『らしい』『かもしれない』『だったらいいね』で構成され、希望的観測で仕上げた杜撰な計画です。もしこんなあやふやな根拠に基づいた論文を査読することになったら助走をつけてリジェクトしますよ」
学生たちが笑った。
「これでお互いに会話できるのは最後になるかもしれません。言いたいことがあれば、今のうちに言っておきましょう」
橋広の声が薪のパチリと爆ぜる音に混じって低く響いた。
テント内ではカイルがレイジとモモナの為に夜を徹して作業をしている。
リヒトはアメリに想いを打ち明けるべきかどうかを悩み――
いや、生き残って伝えればいい。その為に必ず勝とう、と雄々しく決意した。
「……久間川さん。やはり、全員で挑むのは無理なのでしょうか」
九条が、揺れる炎を見つめたまま問いかけた。その横では、アメリが珍しくおとなしく黙り込み、膝を抱えて小さくなっていた。隣のモモナと互いに体重を預けあい小動物の親子のように寄りそいあっている。尊い。
「きみたちは仲が良すぎる」レイジは冷たく乾いた声で言った。
「仲が良いのは結構だが、命の取り合いをする現場では弱点にしかならん。きみたちは誰であれ窮地に陥った友人を見殺しにできないだろう。それが互いを、そして俺を殺す。みんな仲良くカカシに加工されたくなければ予定通り離脱してくれ」
「ですが……」
「俺は山で、仲間を見殺しにしたことがある」
唐突な告白に、教授も、そして聞き耳を立てていた学生たちも息を呑んだ。
レイジの瞳には、焚き火の光も届かない深い闇が宿っていた。
「あれはきつい。ほんとうにきつい。……話が終わりなら各自、準備をして少しでも寝ておけ。交代で見張りに立ち、耳にメシを詰める」
それ以上何も語らないレイジ。
告白の詳細について尋ねるほど胆力のある、あるいは思慮に欠ける者はいないだろう、とその場にいる全員が黙り込む――いや、アメリだけはじっとレイジの顔を見つめていた。
それに気づいた何人かの間にみなぎる緊張――まさか行くのか?
静かにアメリは口を開いた。
「……ねえ、久間川さん。一つ提案があるんです」違った。
その瞳にはいつもの食欲に敗北したたぬきのような愛嬌ではなく、実験動物の変化を観察する研究者のような冷徹な光が宿っていた。
「あいつ、私たちを見て楽しんでますよね。私たちが怖がって、右往左往して、絶望するのを。なら、もっと喜ばせてあげませんか?」
「喜ばせる?」
レイジが眉をひそめる。
「ええ。錯乱と仲違いを演じるんです。通信できなくなって助けも呼べなくなって、追い詰められておかしくなった私たちが、お互いをめちゃくちゃに罵り合って、泣き叫んで、チームとして完全に崩壊した……っていう、ごちそうをあげるんです。あいつが大喜びして、もっと近くで鑑賞したくなって、油断して近づいてくるくらいの傑作を」
アメリの突拍子もない悪質な提案に、一同は呆れつつ納得した。
「……なるほど。あいつの趣味の良さを逆手に取るわけか」
レイジがニヤリと口角を上げる。
「いいでしょう。まったく演技に自信はありませんが、この状況への不満ならいくらでも言いたいことがありますからね」
橋広教授が、どこか楽しげにさえ見える口調で応じた。
「よし、あいつの期待通りにブッ壊れてやろうじゃないか。で、どうやる?」
レイジのその言葉を皮切りに、彼らは即興で「お芝居の練習」を始めることになった。
「じゃあ、まず私から。……えっと、天宮先輩、大嫌い!死んでください!」
アメリは力強くリヒトを指さした。
そのあまりに脈絡なく無邪気に振るわれた言葉の凶弾に、リヒトは「……そんな」と呟き、死人のような顔色になった。
「おやおや、可哀そうな天宮くん。ああ、そうだ。君たちは全員退学だ」
橋広教授がいつもの教壇に立つような穏やかな口調で言った。
額に手を当てて考え込んでいた九条が、難しい顔で腕を組んで指摘する。
「……ダメですね。あまりにも弱すぎます。先生、それではただの通告です。やる気はあるのですか?もっと真剣に、率直に。距離があるのですからもっとオーバーアクションでやったほうが、あの怪物にも『壊れた』ことが伝わりやすいのではないでしょうか」
「ううむ、オーバーアクション、ですか……難しい」
全員が考え込む。
「どうすればよりみっともなく、より劇的に見えるか」を真剣に模索し始めた。
この奇妙な試行錯誤が、翌日のショウタイムへと繋がっていく。
「嫌だ!いやだあああ!最期に、最期に、最期にせめて妻にひと目会わせてくれえ!……会って愛してると……ああああああああああ!」
絶叫する橋広に婚姻歴は無い。
迫真であった。
教授は傍らの樹に頭を打ち付けるようにして、狂ったように笑い、そして咽び泣く。世界を呪い学長を罵り教授会をこき下ろす。声は聞こえずとも、フルスロットルな激しい振り付けと表情筋の限界を超えた演技力は、もはや「これまでの人生の不満をこの機に乗じて吐き出しているだけなのではないか」と疑いたくなるほどの熱量と勢いがあった。凄い。
佐伯ミレイはこの世界の何もかもに絶望した表情でうつむき、ときおり急に顔を上げてはニワトリじみた首の動きで左右を見まわしては「ヒッ、ヒヒヒッ、キヒッ!」と発作的な笑いを漏らすという、テクニカルなコンセプトのキャラ作りをしていた。
藤咲モモナは強奪した橋広のポンチョを着て裾を引きずるように歩いている。
長身の橋広サイズのポンチョはモモナが着るとローブと大差がない。フードの中の顔は目を見開いた笑顔で固定されていた。
「服…返して……」と哀れっぽく懇願する橋広にクォータースタッフを振って威嚇し、ときどき思い出したように手に持った小石を仲間に投げつけるのを欠かさない。
一行は当初の打ち合わせ通り、遮蔽物の多い「石ノ森」へ向かうルートを目指した。行く手に現れたのは、見せつけるように刻まれたあの巨大な四本指の足跡。
そして行く先々に念入りに準備された凄惨な「歓迎」の列だった。
木々の間に吊るされ洗濯物を干すように並んで風に揺れる、モンスターたちの成れの果て。
道標のように積み上げられた臓物。地面から生えるように置かれた闇猫の首。篝火のように組まれた骨。骨。骨。
「――!!」
アメリが声にならない悲鳴を上げ、腰を抜かして泥の中に転げる。リヒトやカイルもまた、もはや演技ではない本物の恐怖に顔を歪め後ずさる。
石ノ森へ続くルートは、その「死のカーテン」によって精神的に封鎖されていた。彼らが逃げ込もうとする場所には必ず、新たな死骸が、あるいは地面を深く抉る爪跡が現れる。ねえ、いいんですか?こっちに来ても。さあこちらへどうぞ、とでも言いたげなインスタレーション。
(ほんとうに仕事熱心な野郎だ。社畜になれるぞ)
レイジは音のない世界で毒づきながら周囲の魔素の動きをうかがい続ける。
怪物は、自分たちが有利な地形へ逃げ込むことを許さない。獲物が自分たちの意志で選んでいると錯覚させながら、その実、袋小路へと――逃げ場のない狩場へ執拗に追い立てている。
辿り着いたのはあからさまに「警告」が存在しない空白地帯だった。
もはや演技と本物の恐慌の区別がつかなくなった一行は、潰走する敗残兵のように、その開けた場所へと転がり込んだ。
一面が白っぽい土で覆われ黒い草が茂り、背の低い岩が点在する、円形の窪地。
音を遮る地形も障害物もない処刑場。
あの演出家気取りの怪物は、今も特等席から眺めているはずだ。
哀れで醜悪な仲間割れ。通信が完全に途絶し、精神が崩壊し、お互いを呪い合う人間たち。捕食者にとってこれ以上ないほど愉快な獲物の姿だろう。
(さあ、来い)
レイジは、音もなく唇を動かした。
灰色のゲルで塞がれた頭の奥、戦意で熱くなった血潮が激しく脈打っていた。
主演:久間川レイジは「最後の演目」を開始した。
バックパックをその場に落として両手にベアバスターを装着し、ピッケルを両手で構える。深呼吸をひとつ行うと、クワッと大きく目を見開いた。
「ウ、ウッガー!ガオー!皆殺しだ~!ピッケル、このピッケルでみんなを殺してやるぞ~!強いぞ!」
レイジは名優・橋広と比べるのも失礼な素人丸出し、ゴミのような棒読みで叫ぶと、愛用のピッケルを頭上でブンブンと大きく振り回した。ウガー!ウガー!ガオガオー!
レイジの滑稽な威嚇を合図に、離脱組の五人が打ち合わせ通りに「ヒィ~ッ!」「もうダメだぁ~!」「訴えてやる~!」と悲鳴をあげながら大仰なジェスチャーと共にいったんバラバラの方向へ逃げ出す。
それと同時に、戦闘班のリヒトが剣を抜き放ち、レイジに向かって喚き散らしモモナはレイジへ無言で投石を開始した。地味に痛い。
完全崩壊。
捕食者にとってこれ以上ないほど熟した甘美な果実。
(さあ笑いながら近づいてこい。ブチこんでやる)
レイジは、ピッケルを振り回しながら作り出される「静寂」に伴う魔素の変化を待った。前兆に合わせて身体を魔素操作で強化するため意識を集中する。
「静寂」が訪れるはずだった。
だが、静寂など訪れなかった。
ギュワッ!と肉体を震わせる振動。つい先日体験したもの。ゲルと医療パッドの防壁を突破し、脳を直接ハンマーで殴りつけられたような一撃。
初手。
怪物は「静寂」というフェーズを飛ばして最大出力の指向性咆哮を一行に叩き込んだのだ。
「ガッ、はっ……!?」
レイジの視界が、何重にもブレた。
耳栓のおかげで鼓膜の破裂こそ免れたが、三半規管を直接揺さぶる衝撃に、強靭な巌のような肉体がグラグラと揺らぐ。
またやってくれたな。
騙されていたのは自分たちの方だった。
あの野郎――「静寂」を展開しなくてもいきなりこれを使えるのか。
震えるレイジの手からピッケルがガツン、と零れ落ちた。
視界が歪み、足に伝わる大地の感触が泥に代わったようにぬかるみ、膝が地を突く。
自分の後ろには倒れたリヒトが短い痙攣を繰り返してる。モモナはどこだ――。
両の掌で自分の頭をバシバシと叩き懸命に意識と平衡感覚を保つ。
かろうじて視界を落ち着けたレイジは、激しい嘔吐感を飲み込んで膝立ちになり、顔を上げた。
目の前にそれが立っていた。
死体のように白いのっぺりとした肌。レイジより頭ひとつぶん以上大きな体格。
全身が無毛。異様に太い皺だらけの首――首が無く直接頭が生えているようなシルエット。半開きになった唇の無い口からは、濡れたピンクの歯茎、色が黒く染まっている事を無視すればいやに人間によく似た生々しい歯並びがのぞく。
全体としては姿勢の良い脱毛ゴリラ。だがあまりにも前腕が太く、長すぎる。
直立しているにもかかわらず、黒い爪が生えた太い指先が踝に届いている。
そしてその目。
白目の部分の無い真っ黒な球体が頭部のほとんど両側に生えていた。
こちらを見ているのか見ていないのかも判然としないヌメヌメとした眼球。
その前腕には自殺志願者が刻む躊躇い傷のような横方向の亀裂が全面に刻まれている。
亀裂は脈動するようにゆるやかに開閉を繰り返し、内部から赤く燃えるような魔素の輝きを漏らしている。これがこいつの自慢の武器か。いや、待てこいつ――
先程の一撃を放った直後だというのに、もう次弾の充填を終えてやがるのか。
怪物は前傾するように頭部をレイジに近づけて斜めを向くようにして左の眼球を目の前の愚鈍な獲物に正対させた。グリュグリュと眼球が回転する。
それはあまりにも稚拙な演技で自分を釣ろうとした道化への嘲笑だった。
「……やれよ、バケモノ」
睨みつけながら唾を吐く。
白い怪物は見せつけるようにゆっくりと、ゆっくりと右腕を振り上げた。
レイジの右前方の地面が裂け、裂けた地面がそのまま怪物に襲い掛かった。
そこには、橋広教授から託されたポンチョを纏い、環境の一部になりすましていた藤咲モモナが潜伏していた。
多機能迷彩ポンチョ『アトモスベイル』
周囲の環境に合わせて色調と質感を秒単位で微調整する可変型迷彩「変彩織」を核とし、さらにアルクノス・アドベンチャー社の独自技術、魔素遮蔽機能によって熱源から魔素の気配までをも遮蔽する『アルクノスの外套』。
橋広教授がもてるコネをフル活用し、プールしていた研究費と引き換えに手に入れたステルス装備は完全に怪物の知覚を欺き切った。
無音の世界。モモナの瞳にはただ澄み切った漆黒だけがあった。
「死ね」「殺す」といった言葉で人間の思考に変換されるよりも前の原初の殺意。
魂が「そうせよ」と肉体を駆動させる命令。
怪物は反射的に左腕を盾にして防御しようとした。
モモナの突き出した先端が尖るように短く加工されたクォータースタッフは、怪物の前腕にあるスリット状の隙間へ吸い込まれるように深く突き刺さる。
同時に爆発的な閃光が炸裂した。
工場出荷状態のクォータースタッフでは到底不可能な威力の電撃。
それは人間が機械に施す安全制御のすべてを取り払って行われた禁忌の一撃だった。
昨夜、モモナはカイルに「おねがい」した。
『サーキットブレーカーもセーフティリークもいらない』
『リードスリーブもはずして』
限界以上の魔素圧がかかった際、余剰エネルギーを強制的に外部へ排出させる機構も、魔導回路への魔素の流入量を制限するために伝導を阻害するスリーブで覆う仕組みも全部外せ。代わりに出力を上げろ――。
使用者の安全を一切考慮しない狂った改造要求をカイルは当然、拒絶した。
「バカ言うな。おまえが死んじまう」「俺にも道具を扱う人間としてのプライドがあるんだよ」と。しかしモモナに両肩を掴まれ「やれ」と言われた瞬間、カイルは首を縦に振るだけの哀れな人形になった。
ボルテージレギュレーターをメーカーが見たならば白目を剥くような状態にバイパスし、伝魔銅回路が耐えられないレベルまで出力を引き上げた、ただ一度きりの規格超過出力攻撃を意図した違法な改造。
怪物の前腕から太いゴムタイヤが弾け千切れるようなバチン!という音が響く。
その一撃がとらえたのは――モモナの杖が突き刺さった場所は魔素を操るための繊細な「発振器官」の基部構造だった。だが狙った位置ではない。偶然だった。
最大の脅威を潰す事に成功したモモナだったが本人は不満だっただろう。
ブッ殺しきれなかった、と。
怨敵に甚大なダメージを与えるのに成功したモモナだったがその代償は大きかった。電撃と魔素の二重のリコイルダメージ。
両手の皮膚は赤く焼け爛れてめくりあがり、目と鼻から血を流して崩れ落ちる。
意識を失い倒れたモモナが着るアトモスベイルは、過電流でほとんどの機能を焼き切られ迷彩機能を失い、そこここからうっすらと焦げ臭い煙をあげている。
怪物の左腕は内部から焼け焦げスリットからはゴブリ、と黒い粘液が溢れ出した。
だらりと腕が垂れ下がり、短く痙攣する。左腕から走った電撃は怪物の全身に稲妻のような黒い筋を幾重にも残した。白一色の怪物に模様ができた瞬間だった。
咆哮の源を潰された怪物が、戸惑ったように自身の動かなくなった左腕を見つめた。
なんで?とでも言いたげな緩慢な動き。
レイジは、その隙を見逃さなかった。
両手の拳を握りしめるとベアバスターがガキキン!と音を立て鋼の拳を形成する。
全身に全開で魔素を巡らせ地を蹴る。
膝立ちから立ち上がりざまに脇腹に叩き込まれた拳に、何かを砕く確かな手ごたえがあった。
「ボビュッ!」と怪物の口から体液が漏れる。
身を折り位置が低くなった怪物の頭部を、打ち上げられるロケットのようなアッパーがとらえる。怪物は折れた歯を盛大にばら撒きながらよろめいた。
さらに無言の殺意を込めて機械的に繰り返される連打。
打撃形態のベアバスターは深層の鎧熊の硬化した外殻を貫き、頭蓋を粉砕する破壊力を持つ。
魔操によって最大強化された肉体から繰り出される拳が左右上下に打ち込まれる様は、重機のアームを振り回して建築物を解体する現場のようだった。
猪獣を「小突いた」ときとは違い明確に殺害を意図して行われるレイジの全力の殴打は、一撃ごとに怪物の骨を砕き内部器官を挫滅させついに膝をつかせた。
(手間、かけさせやがって――)
ようやくアタマが殴りやすい位置に来たな、クソ野郎。
大変お世話になっております。死ね。
その気持ち悪いツラが無くなるまでブン殴ってやる。
あらためて拳を振り上げたレイジに向かって膝をつき、うつむくような体勢だった怪物がひょい、と右腕を向けた。前腕に刻まれたスリットが一斉に開き内部の魔素が赤く震える。
(しまっ――)
「――ああああああああっ!」と怪物しか聴く者のいない雄叫びをあげてレイジの背後から飛び出したリヒトの白く灼熱する魔導剣が怪物の右前腕を貫いたのと怪物の魔操が炸裂したのはほぼ同時だった。
発振寸前で魔素の制御を失った怪物の右前腕が内部から爆ぜ、刺さった剣が衝撃で砕け散りリヒト自身も弾き飛ばされ宙を舞う。
数度、地面をバウンドして転がると動かなくなった。
衝撃の余波で転倒したレイジが身を起こすと、両腕の機能を喪失した怪物に変化が起こっていた。
太い首がウナギのように伸び、首の皺に見えていた《《スリット》》がゆっくりと開き始めていた。その奥から漏れ出でる魔素の揺らめき。
(なんだそりゃ。そんなのアリか?)
怪物はクパ、と口を開いて体液の滴る口腔をいっぱいに開いてレイジに向けた。
――おい、変なものこっちに向けるな。
レイジは渾身のアッパーを下顎に打ち込み、怪物の口を閉じさせた。
これが久間川レイジがこの怪物との戦いで犯した最後の失敗だった。
レイジが拳をふるうべきだったのは顎ではなかった。
ぶるっ、と身を震わせた怪物は「首」のスリットを展開し――。
レイジの全身を青白い閃光と超音速の衝撃波が襲った。




