0015 戦う人魚姫
暗い海の底から、何かが浮かんでくる。見れば見るほど、覗く側でさえ底が見えない、深い海の底から、何かが浮かんでくる。それは、海面に土左衛門宜しく漂っている彼女の目には、ハッキリと見えない。ハッキリと見ようとして、ジッと見つめ続けると、それは珠だ、珠のようだ、珠のような女の子だ。
「ねぇママ、何がそんなに怖いの?」
怖い。そうだ、怖い。ソメリト合衆国に置いては、オフィスラブは受け入れられていない。父親は恐らく認知しない。向こうだって仕事があるのだから。前科持ちの無職男になるくらいなら、孤児を女に押しつけるくらいのことは平然とやる。
でも、もう良いじゃないか。自分はこの仕事は向いていないと分かったのだ。あの敵の戦死者第一号、一番最初に敵の戦姫を殺したあの日以来、自分が刺される夢ばかり見てきていた。
「ねぇママ、私、寂しいの。冷たいの。怖いの。一緒に来て。ここに来れば、もう大丈夫。これ以上、生きなくても良いのよ」
参った。こいつは確かに、娘だ。娘かも知れない。でも、こいつは死んでいる。産まれてくる事は無い。早く自分の胎から引き摺り出さなければ、こっちも死んでしまう。それは辛い事かもしれないが、生きる為にはそうするしかない。
この惑星「テラース」にて最も広大な海、大海洋の真ん中を突っ切っていく大艦隊の強襲揚陸艦「イロウジック」の医務室にて、軍医が複雑な表情で患者に、キリル・ネストルーデ戦姫曹長の腹部のエコーを見る。
「もう動いていない。完全に死んでいる。急いで手術しないと間に合わないわ」
「この船に、設備は無いんですか」
「あるわよ。でも、私が問題にしているのは、あなたの気持ちの問題よ。父親が誰なのかなんて聞かないわ。聞かなければならないと言う軍律も無い」
「かえって有り難いです」
「でしょうね。でも、一言も言わなくても良いの? アフターピルくらい使わせてくれない、最低の男じゃない」
「最初は、飲んでいたんです。でも、あの日から、私、飲まなくなったんです。最初の1人を殺した、あの日から」
軍医の眉間に、二本の筋が走る。
「それじゃあ、あなたは悲劇の人魚姫で、お腹に出来た子供と一緒に水の泡となって消えていくのね。めでたしめでたしでは無いけど、演じるあなたはさぞ気持ちいいでしょうね」
軍医はぴしゃりと言い放つ。
「甘えないで。そんな無責任は許さないわよ。別にあなたが殺したわけでは無い、いえ、殺したのはあなたよ。あなたのその弱さが、この子を殺したのよ。胎内で早い内に死んだから良いものの、もし本当に健康に産まれてきたら、あなたはその時どうしていたのよ。やっぱり可哀想な人魚姫となって海の泡に消えるわけ? そんなんじゃあ、今後安心して産める環境になったとしても、同じ事の繰り返しよ。一生、母親になんかなれないで、海の泡になって消えるだけよ」
キリル・ネストルーデの両肩を、軍医の手が掴み、激しく揺さぶる。
「自分のお腹に出来た命は、あなたの子供だったのよ、いえ、子供なのよ。もう生きていないけど、焼却処分される運命にあるけど、もし巡り合わせが違っていたら、あなたは母親になっていたのよ。いえ、もう母親になっているのよ。おろして終わり、それではあなたは悲劇の人魚姫にすらなれない。ただの馬鹿よ」
「……もうどうにもならない。あの夢から醒めるのには、どうすればいいの。あいつの胸を剣で刺したあの日から、毎晩、毎晩、夢に見るのよ。今度は、この子の夢を見るようになった」
「夢じゃない、現実なのよ。あなたは逃げられないのよ。自分が可哀想だと思うより先に、自分のやった事の責任について考えなさい。手術はします。これから大急ぎで、緊急手術よ。可哀想に、お墓に葬られることも無く、消し炭にされて海に散骨されるのよ。そして、あなたはまだ生きているのよ」
軍医は、キリル・ネストルーデの頬に伝う涙を拭いながら言う。
「醒めない夢は無い。良い夢も悪い夢も、いつかは醒める。それまでは、生きて、生き抜きなさい」
自分のお腹に出来た子供を見る事は無く、全身麻酔で眠っている間に手術は終わり、衛生環境を考えた上で摘出された胎児の遺体は焼却炉にて処分された。この赤ん坊の死と共に、それまでのキリル・ネストルーデも死んだのである。
これから生まれ変わったキリル・ネストルーデ戦姫曹長は、悪魔の申し子だ、残虐非道の魔女だ。相手の心臓を剣で刺すくらいの事では何とも思わない、完璧な殺戮マシーンである。
同時刻、「黎」陸軍の偵察用ドローンが、大海洋を行くソメリト合衆国大海洋艦隊を捉えていた。レイド・サムの守備隊司令部作戦班は、その陣容を知って思わず呻き声を漏らす。
「1個機動部隊、増派したらしいですな。これでは、我々の力だけで切り抜けるのは無理です」
山之神ゴロク作戦中尉は、正直な感想を述べる。東アスラン同盟の栄えある第1戦目を迎えるにあたり、あらゆる忖度は不要、むしろ邪魔である。牛真田ミテル作戦大尉も、それに続く。
「「旱災港奇襲」で、この海域でのパワーバランスは完全にひっくり返りましたからな。レイド・サムの海軍力では代わりは務まらないと、敵は考えたらしい。事実だから仕方が無い」
そこで、北条ノリコ作戦少佐はもっと建設的な提案をする。
「つまり、こちらの勝利条件が見えた、と言う事ね」
はて、何のことやら。と言う表情を浮かべる他の作戦班の面子に対して、ノリコ作戦少佐はハッキリ言う。
「こちらの戦力で、敵の大海洋艦隊をこちらの艦隊戦力と同等かそれ以下まで討ち減らした時点で、こちらの勝ちよ」
言うに易し行うに難し。それが出来なかった場合はどうするのだ。
「本土に脱出して、本土にて決戦よ」
こいつ、とんでもない事を言っている自覚があるのだろうか。本土決戦だぜ、本土決戦。200年前の「テラース」最終戦争でも、レイド・サムは本土決戦前に条件付き降伏を受け入れた。その代わり、海南県を戦場にして、民間人に多大な犠牲者を出した。
こちらの海軍、条件付き降伏にて保有が許されていた海軍力、1個機動部隊、6万トン級空母2隻、8千トン級駆逐艦8隻。航空機80機。戦姫3個大隊。巨神4体。敵はこのざっと3倍近い戦力である。つまり、制海権を完全に握られた環境下に置いて、圧倒的優位に立つ敵を3分の1まで撃ち減らさなければならないのだ。
「黎」から派遣されたタオ・リンナ作戦大尉は、この事態の深刻さを知りつつも、その深刻さに負けないように振る舞いつつ言う。
「存分にやりましょう。旱災港にて炎の中に消えていった同胞達の魂も、それを望んでいるでしょう」
「黎」にとっても、ここの戦いは正念場だ。東アスラン同盟として合従連衡を組んで世界帝国であるソメリト合衆国と戦う決意を固めた彼らにとっても、今後の同盟関係や軍同士の協力関係との構築、「烈」や「渇」との力関係、色々な条件が複雑に絡み合っている。
舌先三寸絡まったこの状況、スッキリさせるのには、「勝利」が必要であった。




