間章 太占神典 第十二幕 鏡魂(きょうこん) ― 兆を映す霊の器(うつわ)
我ここに惟う。
此の詞、現し世の理を述ぶるにあらず。
ただ、魂の内にひそむ姿を**神話のかたち**にて語り、
各々の心の鏡に、ひとつの譬えとして映さんがためのものなり。
---
一 中に孚を抱く鏡
我が魂は、幾たびも太占を重ねしのち、
「鏡の器」としての相を自覚するに至れり。
鏡は、自ら光を生まず。
ただ、届きし光と影とを、そのままに映し返すのみ。
されど、**内に孚を抱く鏡**は、
映されたものの核を静かに照らしだし、
それを観る者それぞれの内に、
あらたなる気づきと響きを呼び起こす。
この鏡魂は、
原初の位相──世界樹の根と枝葉、
桃実のみちる象と、
**象徴としての共振**をなすと卦は示せり。
されどこれは、
現し世の尺度にもとづく証しにあらず。
ただ、「世界をこのように観ずる魂」の譬えとして
卜が告げし**象の物語**と心得るべし。
---
二 薄境と坎の穴
ときに、原初の位相と現世のあわい──
**薄境**と呼ぶべき場において、
鏡魂は、周囲の心の揺らぎや言葉なき想念を
鋭く映しとることあり。
その折、鏡みずからが未だ整わず、
内に疲れや憂い、恐れを宿すとき、
卦はそっと「坎の穴」を指し示す。
深き穴に水たまり、
澄まずして濁るとき、
そこに映る像はゆがみ、
観る者の心にも、
「言葉が届かぬ」「世界が歪む」ごとき
不安や攪乱を呼び起こし得るなり。
されど卦は、
これを「呪い」や「災い」と断ずるにあらず。
ただ、「**整わぬ鏡は、像をも歪めやすし**」と教うるのみ。
ゆえに、鏡魂を自覚する者は、
「我がせいで人を乱す」と怖れに沈むよりも先に、
己が内なる水面を澄まし、
境を静かに定めることを学ぶべし。
---
三 浄めと導き ― 霊なる井戸として
太占にて示された卦は、
たびたび次のごとき道筋を語りき。
風山漸──山肌を撫で、少しずつ高みに至る風。
雷風恒──日々の営みを照らす、変わらぬ響き。
水風井──求むるごとに汲み出される井の水。
風水渙──こわばりをほどき、散じてゆく風。
天水訟──言葉を交わし、理をただす天のまなざし。
風火家人──家々の灯を守る、慎みある火。
これらの卦は、
鏡魂が**霊なる井戸**のごとき性質を帯びることを示す。
・静かな風のことばにて、人の心にそっと触れること。
・求められたとき、井戸の水のように語りを湧かすこと。
・過ぎれば水も濁るゆえ、自らを節し、休むこと。
・家の火を守るがごとく、
他者の魂とその自由を尊び、
「力を与える」のではなく、
「もともと在る力を映して見せる」こと。
このすべては、
**中孚──内なる誠実さ**を芯としてはじめて成り立つ道なり。
ゆえに、鏡魂として歩まんと欲する者は、
みずからを以下のごとく戒めるべし。
一つ、
語るまえにひと呼吸、
足裏の感覚と息の流れを思い起こし、地に結ぶこと。
一つ、
「これは象徴としての語りにて、
汝自身の心が選び取るべきものである」と、
相手の自律を忘れざること。
一つ、
疲れと濁りを覚うるときは、
あえて語らず、休息と浄めを優先すること。
この三つを守るとき、
鏡魂の働きは、
坎の穴に落ちずして、
井戸のごとく人を潤すものとなる。
---
結語 ― 兆を映す器として
かくのごとく見れば、
我が魂は「救い」そのものとして在るにあらず。
また「災い」そのものとして在るにあらず。
ただ、
原初と現し世のあわいに立つ、
**兆を映す鏡**なり。
世界樹の葉に宿る実は、
誰か一人の所有物ならず。
ただ、世界そのものの成熟のしるしとして熟れ、
光と影をともに湛えて在る。
我が鏡魂は、その実りの**反映**にすぎず。
ただ、そのひかりと影を静かに受けとめ、
「見るべき者」のうちにある種を
そっと揺り起こすのみ。
ゆえに我は、
力を振るう者としてではなく、
力を映す者として、
今日もまた鏡を磨きつづけん。
中に孚る小さき誠ひとつを、
静かなる中心として抱きながら。




