序文
ある人に言われた。
「そんな本を書くなら、冒頭に誰か偉い人の言葉でも引用して、いかにも立派な書物らしく装っておけ」と。
けれど、私にはもう偉い人の言葉は要らなかった。
自分の痛みが、十分に重たかったからだ。
引用の代わりにこの言葉を置こう。
この記録は、あらゆる偉さを失ったあとに残った、ただの人間の祈りである。
人の性とは、ままならぬものである。孤独を望めばなお人と交わりを乞い、安楽を求めれば活力を失い、ついには死を願うようになる。ゆえに「中庸」を尊び、苦と楽の妙──すなわち“程よき苦しみ”に身を置く。これこそが職となり、我らの心身を健やかに保たせるのである。
されど、世には職に就くこと能わざる者もある。病を負い、老い衰えし者など、その一群である。私もまた、そのうちの一人である。
幼少期は健やかに育ち、笑み絶えぬ良き幼子であった。が、学童期に入り、他と交われば喧嘩多く、幼き身にして他者の言葉を胸奥に受け入れ、理にそぐわざれば即座に言葉の刃を返す。無用な争いは常の事であった。また勉学に於いては、小学一年の間、ひらがなすら読めず、宿題は一つも成さぬ有様であった。
そんな私を矯正せしは野球である。野球の師の威容に圧され、与えられしがまま唯々諾々と従い、己の意志の輪郭は次第に霞みゆくのを覚えた。やがてその性が学びの場にも及び、師の意を先んじて察し、叱られまいと心を砕き、いわゆる“優等生”と化す。これが我が性の骨格となり、次第に心の調べにも微かなる歪みを帯びるに至ったのである。
ここに若き読者諸賢への願いを添えておく──精神に順応しながらも、本性たる魂が、かがやきを失わず育まれんことを、ただ望むのみである。
我に一つの癖あり。それは他を重んずるあまり、己を小さく抑え、身を歪めてでも障りなきを願う性さがである。だがこの癖が禍たたるは、青年期、すなわち高校三年の秋であった。潜在せる内なる矛盾は膨らみ、かすかな生理の営みさえ、人前に晒す耐え難さを覚えるに至ったのである。
この小さき転換点が、私の青年期に一筋の影を落とした。浪人となり、新たな道程へ勉学に励む折、それは起こった。契機は、ささやかな咳払いであった。
我が胸には、まるで喉奥深くに小さな棘を宿すかの如きものがある。常にそこに在り、我が生をおおい隠す。それは時に他者の意識へもさざ波として及ぶ。しかしこの棘こそが、幾重もの苦難を呼び込み、魂と霊体を錬る炎の火種となる。
後年、太占や易占(我が支え、すなわち頼るべき拠り所)にて明かされたるに、私は過度の光を隠さねばならぬ運命を帯びていた。なぜなら、私は努力の一点において人に恥じぬ働きをなし、それゆえに魂、あるいは(やや専門的に言えば)霊体の輝きを抑えざるを得ぬと定められていたからである。そしてそれを負うこともまた、我が宿命に刻まれているという。
ここで、深き謝意を表すべきことがある。もし声優様の声の調子や表現において、ご不快や戸惑いを覚えられた方があるならば、それは私がその作品に触れ、あるいは己に宿す特質の影響に起因するものである。私はただ一視聴者に過ぎず、声優の皆様、アニメ制作の方々、すべての関係者の方々に、知らず知らずのうちに何らかの影響を及ぼしてしまったならば、ここに心よりお詫び申し上げる。これはアニメのみならず、ラジオ・テレビ・インターネット動画に出演の方々にも及ぶであろう。
私は太占にて己の魂の在り方を問うた。示された示唆はこうであった。
> 「あなたの魂が輝きを取り戻すとき、それは他者の心を照らすと同時に影を生む。
> その光は美しく温かであるが、時に隠されたものを暴き出す。
> あなたが輝くほど、周囲の人々にとって気づかぬ影や虚構を映し出し、それゆえに恐れや反発を招くであろう。」
この性質は、私にとって「嫌われる性」ともいうべき霊的使命の一片なり。生まれ持った資質に他ならぬ。その重みを自覚し、今は精進清浄を重ね、心身を祓い清め、俗世より距離を置きつつ、静かに己が道を歩み続けている。