ふたり、こえにならないままで
昼休みの教室には、弁当の匂いと笑い声が漂っていた。窓際の席では、桐谷優芽が一人静かに文庫本を読んでいた。背筋を伸ばし、静かな手つきでページをめくる。周囲の賑わいに溶け込むことなく、そこにあるのは静かな孤独だった。
教室のドアが開き、吉田颯真が入ってきた。明るく周囲に声をかけながら、自分の席へと向かう。その席は優芽の隣だった。彼の声は、昼のざわめきの中でもどこか心に残る温かさを持っていた。
「それ、おもしろい?」
颯真がふと問いかける。
「普通」
優芽は本から目を離さずに答える。だが、心の奥では、その問いかけが嬉しくもあり、どう返してよいか分からない戸惑いもあった。
「本って、最後まで読まないと面白いかどうかわからない派?」
「……たぶん」
軽いやり取りの後、チャイムが鳴り響き、昼休みが終わった。けれど、優芽の心には、ほんのわずかな温度が残っていた。
夕方。生徒たちが廊下をぞろぞろと帰っていく中、優芽は静かに鞄を持って階段を下りていた。後ろから足音が聞こえ、振り返ると、そこには颯真がいた。
「図書館、行くんでしょ」
「……なんで…分かるの」
「毎日、見てるし」
優芽は何も言わずに前を向き、歩き出した。颯真はその歩幅に合わせて歩き始める。彼の存在が、自分の日常にいつの間にか入り込んでいることに、優芽はまだ気づききれていなかった。
夕暮れの図書館。静かな空間に、カーテンが夕陽で淡く染まっている。奥の席に優芽が座り、本を開く。その向かいに颯真が腰を下ろす。
「別に話しかけたいわけじゃないんだ。ただ、隣にいるのは嫌か?」
「別に…嫌じゃない」
ページをめくる音だけが、ふたりの間に流れていった。その静けさは、気まずさではなく、心地よさと信頼の証でもあった。
その夜、桐谷家のリビングには、夕食が用意されていたが、優芽は手をつけていなかった。テレビの音がかすかに流れる中、兄の陽大が水を飲みながら妹を見つめた。
「今日、どうだった? 学校は」
「…ふつう」
「…なんかさ、顔が少し柔らかくなってる」
優芽の表情は変わらないが、まぶたがわずかに動いた。
「そんなことない…たぶん」
兄の言葉に反発はなかった。彼女の心が、ほんの少しだけ開いている証だった。
次の日の昼休み。颯真が紙を折って作った小さな鶴を優芽の机に置いた。
「これ、なんか手持ち無沙汰でつくった」
優芽はじっと鶴を見つめてから、ぽつりとつぶやいた。
「…折り方…教えて」
その声には、ほんの少しの勇気が込められていた。ふたりの距離が、目に見えないところで静かに縮まっていく。
放課後の図書館。鶴を並べながら折るふたり。机の上には失敗した紙くずがいくつも散らばっていた。
「折り紙って、集中するからなんか余計なこと忘れるよな」
「…でも、形にならないと…気になる」
「そういうとこ、きっちりしてるよな」
「…悪い?」
「いや、好き」
優芽は手を止め、颯真の顔を見る。
「…え…?」
「折り方、好きだなってこと」
優芽は小さく笑い、再び手を動かした。あたたかい気持ちが、胸の奥にじんわりと広がっていた。
雨の日の放課後。外は土砂降りで、生徒たちは傘を手に帰路を急いでいた。優芽は傘を持っておらず、昇降口で立ち尽くしていた。そこへ颯真が傘を差し出す。
「一緒に帰るか? 濡れるの嫌だろ」
優芽は戸惑いながらも頷いた。
「…うん。ありがとう」
帰り道、ひとつの傘の下で歩くふたり。
「…あのね」
「うん」
「文化祭のポスター作りの係…やりたいと思ってるんだけど」
「なら、俺もその係入るよ」
「…いいの?」
「俺がそうしたいからさ」
夕方の図書館。文化祭準備で賑やかな廊下をよそに、ふたりは静かな図書室でポスターの下書きをしていた。颯真がペンを差し出す。
「もう少し、色を入れたらどう?」
「…たしかに」
ふたり並んで一枚の紙を見つめた。その距離はすでに、以前よりずっと近くなっていた。
数日後の教室。葉月瑠璃が優芽に声をかけた。
「ねえ、最近吉田くんと仲いいね」
「…そうかな」
「…私、好きだったんだよね」
優芽は言葉を失う。
「でも、いいんだ。優芽がちょっとずつ笑うようになったから。その理由が吉田君なら、よかったと思う」
夜、自室の机に向かう優芽の手が止まっている。交換ノートを開くと、颯真の文字があった──「優芽の描く線、俺は好きだ」。そのページを、優芽は静かに閉じた。
昼の教室。ひざしが差し込む中、生徒たちの笑い声が響いている。優芽は机にうつむき、ノートを開いているが文字を追っていない。そこへ颯真が近づく。
「今日、図書室行く?」
優芽は顔を上げかけたが、すぐに視線をそらした。
「用事あるから、ごめん」
颯真の表情が曇る。
「そっか、じゃあまた明日」
優芽は返事をせず、再びノートに視線を落とした。颯真はしばらくその場に立っていたが、やがて何も言わずに席へ戻っていった。
夕方の図書室。優芽はひとりで座っていた。机の上には、あの日ふたりで折った鶴が置かれている。
「…話したいのに」
校庭の夕暮れ。颯真がボールを蹴っていると、瑠璃が現れた。
「優芽に謝って」
「俺、何かしたか?」
「なにもしていないことが、いちばん傷つけることもあるんだよ」
数日後の図書館。優芽はノートに文字を書き終えると、それを封筒に入れ、表に「吉田颯真君へ」と記した。
卒業式前日の教室。颯真が机の中から封筒を見つける。封を開き、文面を読み進める。
「本当は、直接言いたかったけど私には難しかった。あなたがとなりにいてくれた日々が、私の心を変えました。」
そして、小さな文字でこう続いていた──「もう一度、図書館で会えますか?」
同日の夕方。図書館のドアが開き、颯真が入ってきた。中には優芽が一人で座っていた。ふたりの目が合う。
「来てくれてありがとう」
「…わ、わたし…」
優芽が言いかけて俯いた。そのとき、颯真が先に言葉をつなぐ。
「俺から、先に言うわ。好きだ。多分、最初から」
優芽は顔を上げて、まっすぐに彼を見つめた。
「…私もだよ」
卒業式当日。笑顔で記念写真を撮る生徒たちの中で、少し離れた場所にふたりの姿があった。静かに並んで立ち、風に吹かれながら手をつなぐ。
「…手、冷たいね」
「そっちが温かいだけ」
ふたりは顔を見合わせ、ゆっくりと歩き出した。