夕べの和音
夕暮れ時、ルドヴィクは自室のピアノの前に座っていた。
今日一日で得た情報を整理しようと思ったのだが、気がつくと鍵盤に向かっていた。この楽器には、何か特別な力があるような気がしてならない。
「もう一度、試してみるか......」
恐る恐る、単音を奏でてみた。
"ポーン"
今度は、花瓶が震えるだけでなく、部屋中の楽譜が微かに揺れた。まるで、音に反応しているかのように。
「やはり......」
続けて、簡単な和音を弾いてみた。
その瞬間——
窓の外で、街の時計という時計が一斉に鳴り始めた。時刻はバラバラなのに、まるで合唱をするように。
「これは......」
ルドヴィクは演奏を止めた。時計の合唱も同時に止まる。
「私の演奏が、街全体に影響を......?」
ノックの音が響いた。
「楽長様、失礼いたします」
クラリスの声だった。
「どうぞ」
彼女は興奮した様子で入ってきた。手には、もちろん帳簿を持っている。
「楽長様! 先ほどの現象、記録できました!」
「街の時計の件?」
「はい! 全部で327個の時計が、16秒間にわたって同期演奏を行いました」
「同期演奏......」
「そして、その音程を分析してみたところ......」
クラリスはページをめくった。
「完璧なハーモニーでした。まるで、最初から計算されていたかのような」
「計算......」
ルドヴィクは考えた。確かに彼は物理学者として、和音の数学的性質を理解している。しかし、それが現実の時計に影響を与えるとは......
「クラリス、君は音楽をやったことがある?」
「少しだけ。子供の頃にピアノを......」
「一緒に弾いてみないか?」
「え?」
「君の記録と私の演奏を組み合わせれば、何か新しいことがわかるかもしれない」
クラリスは躊躇した。几帳面な彼女にとって、予測不可能な「実験」は恐ろしいものかもしれない。
「大丈夫」ルドヴィクは微笑んだ。「失敗しても、それも貴重なデータだ」
「......わかりました」
彼女は帳簿を脇に置き、ピアノの前に座った。
「何を弾きましょうか?」
「君の好きな曲は?」
「えーと......『星の歌』という子守歌があります」
「いいね。それを弾いてみて」
クラリスは恐る恐る鍵盤に指を置いた。最初の音は震え声のように小さかったが、徐々に自信を取り戻していく。
美しい旋律だった。シンプルで、温かくて、どこか懐かしい。
ルドヴィクは、その旋律に合わせて即興で和音をつけてみた。
すると——
部屋の空気が変わった。
楽譜たちが穏やかに揺れ、窓の外では小鳥たちが歌い始めた。街の時計は今度は静かに、正確な時を刻んでいる。
「これは......」
クラリスは演奏を続けながら呟いた。
「とても......平和です」
「君の音楽が、混沌を調和に変えているんだ」
「私の音楽?」
「そう。君の『記録する心』と『音楽への愛』が、不思議な力を生み出している」
演奏が終わった後、二人は静かに座っていた。
「楽長様」
「何だい?」
「私、今日初めて気づいたことがあります」
「何を?」
「完璧な秩序より、優しい混沌の方が......美しいかもしれません」
ルドヴィクは感動した。これこそ、彼が望んでいた「創造的誤解」の結果だった。
「そうだね。そして、その美しい混沌を記録することで、新しい種類の秩序が生まれる」
「エントロピー管理帳簿......」
「いや」ルドヴィクは提案した。「『エントロピー家計簿』はどうだい? もっと親しみやすく、日常的な感じで」
「エントロピー家計簿......いいですね!」
クラリスの目が輝いた。
「明日から、新しい章を始めましょう」
外では、夜が静かに更けていく。しかし、この小さな部屋では、新しい物語が始まろうとしていた。
窓辺に置かれた花瓶の中で、花がわずかに輝いていた。それは錯覚かもしれないし、新しい奇跡の始まりかもしれない。
どちらでも良かった。
大切なのは、その美しさを感じる心と、それを記録する勇気だった。
第2章へ続く
ある日の記録より:
異常現象発生回数:43回
時計停止:15回
楽器自動演奏:12回
水面波紋:8回
その他:8回
新しいアイデア:1個(エントロピー家計簿)
感動の瞬間:測定不能