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混沌と秩序の午前

 9時きっかり。クラリス・オルガネーゼは分厚い帳簿を抱えて執務室に現れた。


「おはようございます、楽長様」


 彼女の挨拶は完璧に正確だった——声の音量、お辞儀の角度、足音のリズム、全てが計算されたかのように。


「おはよう、クラリス」


 ルドヴィクは彼女を観察していた。この几帳面そうな女性が、昨夜のことをどう解釈しているのか興味があった。


「昨夜の件について、報告いたします」


 クラリスは帳簿を開いた。そのページには、美しい文字で詳細な記録が書き込まれている。


「楽器の『自動演奏』現象、発生時刻19時42分より23時17分まで」


「自動演奏?」


「はい。ヴァイオリン7挺、チェロ3挺、ハープ2台が、それぞれ独立に音を奏で始めました」


 彼女の記録は正確だった。だが——


「面白いのは、その音の組み合わせです」


 クラリスは別のページを開く。そこには、音符と数字が混在する奇妙な表が描かれていた。


「この現象、実は一定のパターンがあるようでして」


「パターン?」


「はい。楽器ごとの音程の変化を数値化してみたところ......」


 彼女が示すグラフを見て、ルドヴィクは息を呑んだ。それは——


「これは......エントロピーの変化曲線に似ている」


「エントロピー?」


 クラリスの目が輝いた。新しい単語への興味だった。


「ああ、えーと......」


 またやってしまった。しかし、今度は違った。


「詳しく教えていただけますか?」


 彼女は真剣だった。帳簿に新しいページを用意し、ペンを構えている。


「エントロピーというのは......簡単に言うと、混乱の度合いを表す指標だ」


「混乱の度合い......」


 クラリスはメモを取り始めた。


「つまり、秩序の反対概念?」


「そう......いや、実はそうでもない」


 ルドヴィクは興味深い展開に気づいた。この几帳面な家政長は、「混乱」を敵視するのではなく、理解しようとしている。


「エントロピーが増大するとき、確かに『混乱』は増すが、同時に新しい可能性も生まれる」


「可能性......」


「例えば、完璧に整理された部屋と、少し散らかった部屋、どちらが住みやすい?」


 クラリスは考えた。几帳面な彼女なら「整理された部屋」と答えるはずだが——


「......少し散らかった部屋の方が、安心するかもしれません」


 意外な答えだった。


「そうだろう? 完璧すぎる秩序は、時として窮屈だ。適度な『混乱』が、システムに柔軟性をもたらす」


「適度な混乱が、柔軟性を......」


 クラリスは熱心にメモを取っている。その姿を見て、ルドヴィクはふと思った——彼女は本当に「秩序」だけを愛しているのだろうか?


「エントロピーを管理する方法は、ないのでしょうか?」


「管理?」


「はい。帳簿のように、記録して、最適化して......」


 彼女の目が再び輝いた。それは新しいアイデアが生まれる瞬間の光だった。


「面白い発想だ」ルドヴィクは微笑んだ。「でも、エントロピーは測定できても、制御は難しい」


「でも......もし、できたら?」


「どうなると思う?」


 ルドヴィクは答えを教えるのではなく、問いかけた。彼の信念——「誤解こそが創造の源泉」——に従って。


 クラリスは考え込んだ。ペンを回しながら、視線を宙に漂わせている。


「もしかすると......」


「うん?」


「混乱を記録することで、新しい種類の秩序が生まれるかもしれません」


「......!」


 ルドヴィクは驚いた。この発想は、彼が期待していた以上に創造的だった。


「混乱の記録による新秩序......素晴らしいアイデアだ」


「本当ですか?」


 クラリスは嬉しそうだった。そして、すでに新しいページに何かを書き始めている。


『エントロピー管理帳簿(仮)』


「これは......」


「まだ思いつきですが、館内で起こる『混乱』を全て記録してみようと思うんです」


「例えば?」


「楽器の自動演奏、時計の停止、噴水の謎の波紋......昨日今日だけでも、いくつもの『異常』がありました」


 彼女の発想は止まらない。


「それらを数値化して、パターンを見つけて、もしかすると......予測できるかもしれません」


「予測......」


「はい! 混乱を予測できれば、それはもはや混乱ではありません。新しい種類の秩序です」


 ルドヴィクは感動していた。これは物理学の本質を直感的に理解した発言だった。そして同時に、完全に間違った理解でもあった。


 しかし——それでいい。


「素晴らしい」彼は言った。「ぜひ、やってみてください」


「ありがとうございます!」


 クラリスは興奮していた。新しいプロジェクトへの情熱が、彼女の几帳面な外見の奥から溢れ出ている。


 その時だった。


 執務室の時計が突然止まった。針が12時17分を指したまま、動かなくなったのだ。


「あ!」


 クラリスは即座に帳簿を開き、記録を始めた。


「時計停止現象、発生時刻......」


 彼女は腕時計を確認し、正確な時間を記録する。その手つきは、まるで科学者のようだった。


「楽長様、今、何か特別なことを考えていらっしゃいましたか?」


「特別なこと?」


「はい。現象の発生と、楽長様の思考には相関関係があるように思えまして」


 鋭い観察だった。実際、ルドヴィクが感動していた瞬間に時計は止まったのだ。


「君は......優秀だね」


「ありがとうございます」


 クラリスは微笑んだ。その笑顔には、几帳面さだけでなく、何か暖かいものがあった。


 窓の外では、サイコロ兄弟らしき人影がちらりと見えた。彼らもまた、この世界の「異常」に関わっているのだろうか。


「明日から、本格的にエントロピー管理帳簿を始めてみます」


「楽しみだ」


 ルドヴィクは答えた。そして心の中で思った——この創造的な誤解が、どんな奇跡を生み出すのだろうか。


 止まった時計が、再び動き始めた。まるで、新しい物語の始まりを告げるかのように。

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