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粒子の響き

「宮廷楽長様、早くご準備を!」


 急かす声とともにノックが鳴る。その音は妙に規則的で、まるで3/4拍子のワルツのようだった——いや、これは偶然だろうか、それとも?


「あの、すみません、その......私は一体......」


 ルドヴィクがドアを開けながら言いかけた言葉は、目の前の光景に飲み込まれた。


 廊下に整列した従者たち——その数、十数名——が完璧に同期した動きでお辞儀をした。まるでオルゴールの人形のような、不自然なまでの一致。物理学者としての彼の目には、これは興味深い現象だった。


「お目覚めでございますね、楽長様」


 先頭の従者が顔を上げる。その顔は真面目そのものだが、どこか必死さが滲んでいる。


「昨夜の演奏、まことに素晴らしゅうございました」


「昨夜?」


 ルドヴィクは困惑した。記憶にあるのは研究室での最後の瞬間——黒板に向かって、エントロピーの式を......それから先は、霧の中だ。


「ええ、あの『天上の風』を呼んだ演奏です!」


 従者の一人が興奮気味に言う。


「宮廷中が大騒ぎでした!」


「楽器が勝手に鳴り出して......」


「時計が止まって......」


 口々に報告される現象は、どれも物理学的に興味深いものばかりだった。しかし——


「あの......すみません」


 ルドヴィクは遠慮がちに手を挙げた。


「私は......記憶が少し曖昧で......」


 従者たちが顔を見合わせる。当然だろう。記憶喪失の宮廷楽長など、前例がないに違いない。


「とりあえず、今日の予定を教えてもらえますか?」


「はい! 9時からクラリス様との業務報告、11時からは......」


 予定表を読み上げる従者の声を聞きながら、ルドヴィクは物理学者としての好奇心を抑えきれずにいた。


「ところで、君たちは......」


「はい?」


「なぜそんなに息がぴったり合うんだい?」


 従者たちが顔を見合わせる。


「はあ......息、ですか?」


「動きのタイミングが、まるで一つの波動関数のように統一されている。これは量子もつれの一種なのか、それとも......」


 説明していくうちに、従者たちの目が点になっていく。


「あー、えーと」


 ルドヴィクは慌てて言い直した。


「つまり、とてもよく訓練されているということだ」


「ありがとうございます」


 従者たちはほっとした様子で微笑んだ。危うく量子力学の講義をするところだった。


 中庭に向かう途中、ルドヴィクは気づいた。従者の一人——小柄な青年——が、他の者と微妙にズレている。正確には0.3秒程度の遅れだが、物理学者の目には明確に見える。


「君、そこの」


 ルドヴィクが声をかけると、青年は慌てたように振り返った。


「は、はい!」


「別に責めているわけじゃない。ただ、なぜ君だけ位相がズレているのか興味があって」


「い、位相......?」


 青年は困惑する。


「あ、いや、なんでもない」


 またやってしまった。物理学用語は通じないらしい。


 しかし、その瞬間だった。


 風もないのに、中庭の噴水がかすかに震えた。青年の表情が変わったのと同時に、空気中に微細な振動が走る。


「あれ?」


 他の従者たちも気づき始める。噴水の水面に同心円の波紋が広がっていく。まるで、見えない石が投げ込まれたかのように。


「これは......」


 ルドヴィクの科学者としての血が騒いだ。この世界では音楽と物理現象が密接に関係しているのだろうか。


「楽長様、これは一体......」


 青年の従者が震え声で尋ねる。その目には恐怖と期待が混じっていた。


「わからない」


 ルドヴィクは正直に答えた。


「でも、確実に言えることが一つある」


「それは?」


「面白いことが起きそうだ」


 彼は微笑んだ。物理学者として、未知の現象ほど胸躍るものはない。たとえそれが、常識を覆すものであったとしても。


 ふと見上げると、宮廷の窓から一人の女性が庭を見下ろしていた。きっちりと髪を結い上げ、手には分厚い帳簿を抱えている。クラリス・オルガネーゼ——宮廷家政長だ。


 彼女の視線は鋭く、まるで庭園の中に秩序の乱れを見つけようとしているかのようだった。いや、もしかすると——美しい混沌を記録しようとしているのかもしれない。


「ルドヴィク様」


 クラリスの声が上から降ってくる。


「本日の予定通り、9時から業務報告をお願いします」


「わかった」


 ルドヴィクは手を振り返す。この几帳面そうな家政長は、物理学的な「混沌」をどう受け止めるのだろうか。


 噴水の波紋はまだ続いている。規則的な円を描きながら、まるで何かのメッセージを送っているかのように。


「楽長様」


 青年従者が恐る恐る近づいてくる。


「これ、私のせいでしょうか......」


「わからない」ルドヴィクは再び答えた。「でも、君のせいかもしれないし、私のせいかもしれない。あるいは、全く別の何かかもしれない」


「???」


 青年は更に困惑したが、ルドヴィクは続けた。


「大切なのは、なぜそうなるかではなく、そこから何が生まれるかだ」

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