目覚める混沌
薄暗い音の響きが目覚めの合図だった——もしかしたら、これは本当に「目覚め」と呼んでいいものなのだろうか? ルドヴィクはまどろみの中で、静かに染み込むような音が作り出す奇妙なリズムに意識を引き寄せられた。
目を開けると、そこは——確実に言えることは一つだけ。現実とは到底思えなかった。
「なんだこれは......服が......ひらひらしている?」
見下ろした自分の姿に、彼は小さな困惑を覚える。見慣れない、やけに派手な青い外套。袖口には金の刺繍が施され、まるで18世紀の貴族のような装いだった。しかし、物理学者としての彼の注意は、別の側面に向けられていた。
皮膚に触れる服の手触りが、異様に滑らかで軽い——まるで空気そのものを身に纏っているような......質量が明らかに期待値と異なる。呼吸をすると、澄み切った空気が肺を満たし、耳にはかすかな高音のような響きが残響として漂っている。
「待て、昨日まで私は......研究室で......」
断片的な記憶が脳裏をよぎる。黒板に書かれた数式、S = k log W の文字、そして——
部屋の中央に構える漆黒のピアノが、彼の思考を中断させた。それは闇に吸い込まれた星々が光り輝くかのような艶を持ち、鍵盤のひとつひとつが何かを隠し持つように、無言の圧力を放っている。
「ピアノ? 私はピアノなど弾けたか?」
さらに辺りを見渡せば、壁には楽譜がランダムに掛けられ、その隙間に小さな文字や数字が並んでいる。よく見ると、それは音符ではなく——
「これは......エネルギー準位の計算式? いや、違う、楽譜だ。いや、両方か?」
楽譜と計算のフラクタルが織り成す、壮大な混沌の作品。これが意味するものは——
「ここは……?」
声を放った直後、ルドヴィクは自分の声が奇妙に響くことに気づく。この声は本当に自分のものなのか? 少し高く、若々しい響きがある。
手を見つめる。指が以前の自分よりも少し細長い。そして爪が妙に手入れされている。
「音楽家の手......?」
ふと、頭に裂け目が生じるように、ある言葉が浮かぶ——
「状態数……確率……エントロピー……?」
その言葉には重厚な響きがあり、目の前の部屋や空間には不釣り合いな、確かな意味の気配がした。
「エントロピー......そうだ、私はルートヴィヒ・ボルツマン......だった、はずだ」
しかし、その確信も次の瞬間には揺らぐ。外から物理的な音が響く——ノックの音だ。
「宮廷楽長様、本日の定例報告の時間です!」
ドア越しの声に、ルドヴィクは凍りついた。
「宮廷楽長? そんな地位を自分が持っているとは一体......」
部屋の隅にひっそりと置かれた指揮棒が彼の目に飛び込む。それを見た瞬間、脳裏にノイズ交じりの記憶らしきものが焼き付いた。
恐る恐る鍵盤に指を置き、一音を響かせてみた。"ポーン"。
瞬間、彼の目に映像が走る——「数字の羅列」が混濁した渦となり、漆黒の背景に浮かび上がる。振動数、波長、エネルギー準位——物理学の言葉が音符と混ざり合い、奇妙な調和を生み出していく。
「……この音、面白い振動数だ」
物理学者らしい感想を呟いた瞬間——
窓際に置かれた花瓶がかすかに震えた。錯覚か? 風もないのに、カーテンの裾がひらりと舞い上がる。
「音が......物理的な力を?」
沈黙が周囲を飲み込み、風音が次第に消えゆく。その一瞬を境に、彼の心には問いが浮かぶ——この世界は何を欲している? 音楽か、知識か、それとも......
「とりあえず、ドアを開けなければ」
彼は肩をすくめた。物理学者として培った合理的思考が、この非合理な状況でも彼を前に進ませた。