第6話:顔のない目
「わたし、たぶん視えるようになってきました!」
その日、部室に入ってくるなり、谷川日葵は満面の笑顔で爆弾を投下した。
千景先輩の手がピタリと止まり、俺は飲んでいたお茶をむせかける。
「……いやいやいや、軽く言うことじゃねーだろそれ!」
「だって昨日、帰り道で人の形した影がずーっと横断歩道の端に立ってたんですよ!
それもすっごく背が高くて……あと、顔が無かったです!」
「うわ、それ完全に怪異じゃん……」
「……その特徴、怪異に多く見られる形態よ」
千景先輩が静かに言ったその一言で、部室の空気が少しだけ引き締まる。
「場所は?」
「第二キャンパスの裏の交差点です。なんか、妙に空気が冷たくて……」
「……日葵、ちょっとここ座って」
千景先輩が真剣な目で日葵を促す。
その空気に、彼女もようやく「あれ?」と首を傾げた。
「視えるってことは、何かに“引かれてる”可能性がある。
しかも、その対象が“顔のない影”なら、尚更よ」
「えっ、もしかして……呪われてます?」
「正確には、“接触されかけてる”」
千景先輩の言葉に、日葵の目から一瞬笑顔が消える。
でも次の瞬間、あっけらかんと笑って言った。
「そっかー、やっぱり私、選ばれし民なんですね!」
「いやノリ軽すぎんだろ……!」
「だって! これでオカルトサークルっぽくなってきた感じするじゃないですかー!」
……この子、やっぱすげぇわ。
でも同時に、俺はちょっとだけ嫌な予感がしていた。
“視える”ってことは、“見られている”ってことでもある。
そしてそれが、どれだけ重くて危うい意味を持つか――
日葵はまだ、知らなかった。
⸻
*
数日後、俺と日葵は大学の中庭ベンチで話していた。
千景先輩に言われて、視えてる自覚が本物かどうか、“確認作業”をしている真っ最中。
「で? 今、なんか変な気配とかある?」
「うーん……ない、と思います! でも、あっちの校舎の影がちょっと濃い気がするような……」
「それって、ただ日陰なんじゃ……」
「違いますって! なんか、“重い”んですよ。空気が」
日葵は人差し指を立てて、自信満々に言い放つ。
その明るさに、不安と期待が入り混じってるのがわかる。
「……でもまあ、最初の頃の俺より全然感覚あるっぽいな」
「ほんと? それ、褒めてます?」
「褒めてるつもり。俺なんて最初、ただのオカルト好きだったし」
「今もですけどね?」
「おい」
冗談を飛ばしながら、俺は少しだけ表情を引き締めた。
「でもな、日葵。ひとつだけ言っとく」
「ん?」
「“視える”ってことは、“見られる”ってことなんだ。
視えるってことは、怪異の側からも、お前が見えるってことだから」
日葵が、少しだけ表情を引き締めた。
「……うん。ちょっと怖いけど、覚悟はしてます」
「無理すんなよ。なんかあったら、俺か……千景先輩がすぐ助けるから」
そう言うと、日葵がぽつりと呟いた。
「春野先輩、やっぱ優しいですね」
「いや、俺は怖がりなだけだって。
誰かの前で何か起きたら、もう一人でトイレ行けなくなるタイプっすから」
「えー、そういうとこ、ちょっとかわいいかも」
「やめい」
そう笑い合った直後。
ふいに、日葵がピタリと動きを止めた。
「……春野先輩。あそこ、誰か立ってますよね?」
日葵の視線の先――校舎の裏のフェンスの向こう。
……最初は、何もなかった。
けど目を凝らすうちに、“何か”の輪郭が、空気のゆがみに浮かび上がってきた。
それは、黒い人影だった。
まるで墨を水に溶かしたように、ぼやけていて、形が曖昧で――なのに、そこにいるのは確かだった。
呼吸が詰まる。
肌の内側を冷たい何かが這い上がってくるような感覚。
“視えてる”……わけない。
でも、“見られている”という確信が、背骨に突き刺さった。
「日葵、今すぐ目を逸らせ」
「え……でも」
「いいから!」
俺は反射的に日葵の手を引いた。
その瞬間、風がざわりと吹き抜け、フェンスの向こうの影が“動いた”。
日葵がビクリと肩をすくめた。
「今の、見てた……わたしのこと、見てた……!」
「わかった、もういい。走るぞ!」
俺たちはそのままベンチを離れ、足早に建物の陰へ駆け込んだ。
*
サークル部室に戻ると、千景先輩はすでに待っていた。
俺と日葵の顔を見た瞬間、その表情がわずかに険しくなる。
「……何があったの?」
「影っす。フェンスの向こうに“何か”が立ってた」
「視えたの?」
「俺にも……ぼんやりと、ですけど。たぶん一瞬だけ」
「あなたも……」
千景先輩の言葉が、そこで止まる。なにかを考えている顔だった。
日葵は、まだ肩を震わせていた。
「ごめんなさい、私……あれ、なんだか“視えちゃった”って感じで……」
千景先輩がそっと、彼女の隣に腰を下ろす。
「大丈夫よ。視えたことを、恥ずかしいとか怖いと思わなくていい」
「でも、あれ……すごく怖くて。目を合わせたら、心の奥を覗かれるみたいで……」
千景先輩の眉が、ピクリと動いた。
「……目を合わせたって、どういう意味? 日葵、その影、顔……視えてたの?」
「え……あ……そう、ですよね……顔はなかった、はず。なのに……なんで……?」
その瞬間、部室の空気が凍りつく。
「……それ、かなり危険かもしれない。
“目がないのに目が合った”ってことは、意識に直接入り込むタイプ。
もし向こうが一歩踏み込んでたら……あなた、もうここにはいなかったかもしれないわ」
日葵が、言葉を失う。
俺もまた、背中に冷たい汗をかいていた。
日葵だけじゃない。俺にも“あれ”が、視えていた気がする。
いや、視えていた。確かに、見られていた。
「春野くんも……ね」
千景先輩が静かに、俺の名前を呼ぶ。
「あなたも、以前とは違う。
前は“感じる”ことすら稀だった。けど、最近は違うわよね?」
「……視えた気がしたんすよ、今日。
ぼやけてたけど、そこに“何か”が立ってた」
千景先輩は、小さく息をついた。
「気づかないうちに、あなたも“扉”に触れていたのかもしれないわね」
その言葉の重さに、俺は思わず手のひらを見下ろした。
――あの倉庫で、声が聞こえたとき。
――鏡の中の自分が笑ったとき。
そして、今日――
それらすべては、最初の“予兆”だったのかもしれない。
*
日葵はその日、少しだけ静かだった。
でも、部室を出るときにはいつもの笑顔でこう言った。
「これからも、ちゃんと先輩たちについていきますね!」
「それ、お前が一番先に死ぬタイプのセリフだからやめとけ」
「うそー! 私、案外しぶといんですよ?」
そう言って笑うその顔から、怖がっていた様子はもう消えていた。
それでも俺は、思った。
――このサークルに入ってから、何かが変わり始めている。
俺自身も。
日葵も。
そして、千景先輩も――
変わっていくその先に、俺たちは何を視るのだろうか。
今回は日葵の“視える力”の発現を描きつつ、
「顔がないのに目が合う」という矛盾を通じて、怪異の異常性と恐怖を際立たせました。
次回、第7話『春野、消える』では、拓海自身がついに“怪異に喰われかける”事件に直面します。
お楽しみに!