第4話:あやかしは、人の顔をして笑う
春、大学の掲示板に貼られた「履修相談」案内の紙に、いつの間にか落書きが増えていた。
最初は、名前もないキャラクターのイラストだった。
次は、なぜかそのキャラに吹き出しがついていた。
そしてある日、掲示板の前で談笑していた学生のひとりが、突然言った。
「今、誰か笑ったよな?」
誰も笑っていなかった。
その学生は青ざめて、その場から逃げ出したらしい。
――というのが、今回の“怪異ネタ”の始まりだった。
*
「で、また変な噂拾ってきたのが小山先輩、ってわけっすね」
「違ぇよ、俺が広めたんじゃなくて、もう大学全体にじわじわ来てんの。ツイッターでもちょっと出回ってる」
部室で、カップラーメンを啜りながら悪友・小山直樹先輩が言う。
相変わらず話し方は軽いけど、目つきはちょっとだけ真面目だった。
「落書きの吹き出し、どんなこと書かれてたんすか?」
「それがな、週ごとに変わるんだよ。“こんにちは”とか“また会ったね”とか。んで、今週は――」
直樹先輩がスマホを見せる。
『君、気づいてるよね?』
「こっわ……」
「マジなやつだろ?」
「それ、掲示板のどの紙に書いてあったの?」
千景先輩が口を挟む。
背筋が伸びたその姿勢は、すでに“警戒モード”だった。
「履修相談のやつ。法学部棟の掲示板」
「その建物、前に“合わせ鏡”の件があった場所ね」
「え、それって前にも何かあった場所なんすか?」
「ええ。あそこ、怪異の“交差点”みたいなもの。痕跡が残ってる」
「ってことは、今回のこれも……」
「可能性はあるわ。怪異って、残滓や痕跡を辿って根を張るから」
俺にはまだよくわからない言葉が出てくるけど、千景先輩の顔は本気だ。
“何か”が学内に確実にいる――そう感じている表情だった。
「よし、夜に見に行ってみようぜ」
直樹先輩がそう言うと、千景先輩は即答した。
「ダメ。夜は出やすい。特に、視えない春野くんには危険」
「え、でも俺、視えなくても感じちゃってるっすよ最近」
「それが一番危ないの」
言葉は冷たい。でも、それはたぶん心配の裏返しだ。
千景先輩の目が、俺の目をじっと見つめる。
「今回は……私と小山で確認に行く。春野くんは、部室で待ってて」
「え、俺だけお留守番っすか?」
「――あなたが視えないから、いい“囮”になるって思ってるでしょ? だったらお断りよ」
「いや、そんなこと微塵も思ってないっすけど!」
正直、ちょっとだけ思ってた。でも口には出してない。セーフ。
「……わかりました。なら、情報整理だけでも手伝うっす」
言いながら俺は、壁に貼ってある過去の怪異ファイルに目を向けた。
――そこには、見覚えのない“笑う女”のイラストがあった。
*
夜。部室。
千景先輩と小山先輩が出ていってから、まだ十五分も経っていない。
俺は一人、ソファにもたれて、過去の記録ファイルをめくっていた。
怪異に関する報告書、学生の証言、写真のコピー。
どれもどこか現実感が薄くて、それでいて変に生々しい。
「“笑う女”って、前にも……出てたっけ?」
数年前のファイルに、あのイラストとよく似た顔の女の落書き写真が載っていた。
髪が長く、口元がにやけていて、目は黒く塗りつぶされている。
その写真の下に、手書きのメモが添えられていた。
“目を合わせてはいけない。合わせたとき、鏡の中に入ってくる。”
……鏡?
その瞬間、ふと、部室の片隅に置かれた姿見が視界の端に入った。
黒布がかけられていたはずなのに、風もないのに、布がずれていた。
「……おいおい、やめろよ」
俺は立ち上がって、そっと布を直そうと近づいた。
でも、なんか、おかしい。
鏡の前に立った俺が――笑っていた。
いや、鏡の中の“俺”が笑っていた。
口元が、ゆっくりと歪む。
「……っ!」
俺は反射的に後ろに飛びのいた。
鏡の中の“俺”も、同時に動いた。動きはまったく同じ……じゃない。
ワンテンポ遅れて、笑ったままこちらを向いている。
心臓がどくどくと音を立てる。
足がすくむ。でも、目を逸らしたら――ダメな気がした。
「おい……誰だよ……」
すると、“俺”が喋った。
『君、気づいてるよね?』
――聞こえた。声が。鏡の中から。
でもその“俺”は、口を動かしていなかった。
声だけが、頭の奥で響いた。
ゾクリと背中を冷たいものが這う。
その瞬間、スマホがブルッと震えた。
通知。千景先輩からのLINEだった。
『そこ、鏡に何か出てない?目を合わせないで。布をかけ直して。すぐ戻る。』
思考が止まってた頭が、一気に現実に引き戻された。
「合わせない、合わせない……!」
目を逸らしながら、手探りで布を持つ。
指が鏡に触れた気がして、心臓が飛び跳ねた。
「くそ……!」
勢いよく布をかぶせる。
視界から鏡が消えると同時に、部屋の空気がスッと軽くなった気がした。
けれどその直後――耳元で、女の笑い声がした。
ヒィッと情けない声が出そうになるのを必死でこらえる。
足が震えて、壁にもたれて崩れ込む。
「……視えてないのに……なんで……」
たぶん、視えなくても“触れた”。
あれは俺の姿を借りた、何か“別のもの”だった。
そしてそれは、俺が“気づいた”とわかった瞬間に、向こうから手を伸ばしてきた。
(俺、ヤバいやつに目ぇつけられたんじゃ……)
そう思ってると、バタンと扉が開いた。
「春野くん!」
千景先輩の声だ。息を切らせて駆け込んでくる。
俺は座ったまま顔を上げる。
「……やっぱり来たっす。鏡の中の俺が、笑ってたっすよ」
千景先輩は無言で鏡に目をやり、布の上から手を翳した。
なにやら呟いて、小さく符を貼りつける。
その間、小山先輩がスポーツドリンクを渡してくれる。
「マジで無事でよかったな。……千景、あれ完全に“写り込み型”のやつか?」
「ええ。自分の顔と記憶をコピーして侵食するタイプ。
もう少し対応が遅れてたら……彼、戻れなかったかも」
「戻れない……っすか?」
俺の声が少しだけ震えた。
でも千景先輩は目を逸らさず、しっかりと言った。
「“鏡”の中に連れて行かれて、意識が抜けたままになるの。
最悪、二度と戻れない。……でも、春野くんは戻ってこれた」
「……さすが俺。なんとか、なるもんっすね」
冗談混じりにそう言うと、千景先輩の肩が、少しだけ緩んだ気がした。
「たぶん、まだ“護られてる”のよ。あなた」
「それの正体、いつかわかるっすかね?」
「わからなければ、知りに行けばいい。そういうサークルでしょ、ここは」
俺は、ゆっくりと頷いた。
あやかしは、人の顔をして笑う。
それは不気味で、どこか悲しくて――でも、確かに“そこにいる”。
今日もまた、“怪異録”に一行が刻まれた。
ここまで読んでくださってありがとうございました!
今回は拓海の“視えないけど感じる”力がよりはっきり描かれた回でした。
鏡という題材はホラーと相性抜群なので、書いてるこっちもゾクゾクしながらでした。
次回は一旦ホラーの緊張をゆるめて、オカ研メンバーの日常寄り回へ。
でも、何気ない日常の中にも、怪異の影は潜んでいて――?
第5話『手を繋いでくれる幽霊』もぜひお楽しみに!