第12話:怪異の記録
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講義がすべて終わった夕方。
部室の机には、古びた紙資料が何十枚も積まれていた。
「すげえっすね、これ……。いつの時代の記録っすか?」
「一番古いのは、昭和中期。それから平成初期……このあたり」
千景先輩が指差したのは、今にも崩れそうな綴じ紐のファイル。
カビのような匂いと一緒に、微かに鼻をつく墨のにおいがした。
「このへん、“鏡”に関する報告が続いてる。……気づいてる?」
「え?」
先輩の言葉に、俺はパラパラとページをめくる。
確かにそこには、“鏡に映った誰か”“動いた顔”“覗かれている感覚”といった共通項がずらりと並んでいた。
「……これ、まさか……」
「ええ。こないだの“鏡の奥から視られる”って話と、繋がるわ」
“あのとき”の影。
ただ“そこにいた”だけのはずの存在が、俺の感覚に入り込んできた。
千景先輩が過去に言いかけた、“妹”のこと。
……あれも、もしかして――こういう“何か”を視たんだろうか。
「……これ、もしかしてっすよ。
“視えたら終わり”とかじゃなくて、
“視たら始まる”……とか、そういうやつなんじゃ……」
千景先輩が目を細めた。
その横顔はどこか硬くて、どこか……寂しげだった。
「……それ、たぶん正しい」
* * *
そのとき。
「おーい、おつかれー。まだ怪しい資料漁ってんのか?」
ドアを開けて顔を出したのは、小山先輩だった。
「小山先輩、おつかれっす」
「よう。千景もいるのか。……あ、睨むなって。
ちゃんとドアノックしようと“思ってた”ってば」
千景先輩は何も言わず、資料を片づけながら軽くため息をついた。
「で、あんたは何しに来たの?」
「んー? いや、別に?
なんか妙に空気が重いっていうか……ちょっと気になっただけ」
「気になった?」
「ほら、こういうとき、俺の“微霊感センサー”ってやつが騒ぐのよ。
なーんか、こう……部室の空気が張りつめてるっていうか」
俺は思わず千景先輩と顔を見合わせる。
「……先輩、それって、いつから?」
「うーん……昨日の夜からかな。なんか変な感じしてて。
今日になってもずっとモヤモヤしてたからさ、顔出しとこうかと」
「……それ、部室に限った話っすか?」
「いや、それが……文化研究棟の方も、ちょっと雰囲気変わってんだよな。
気のせいかもだけど、倉庫っぽい部屋のあたりとか。
誰もいないのに、空間だけ妙に“重い”っていうかさ」
俺の背筋がスッと冷たくなる。
“誰もいないのに、重い空間”。
なんだろう。……どこかで、聞いたことがある気がする。
「あ、ちなみにな――」
小山先輩がポケットに手を突っ込みながら言った。
「千景は“感覚型”じゃねえから、こういうのには鈍いぞ。
霊感あっても、“視える”だけってことはあるからな。俺の逆っつーか」
「……そうなんすか」
「まあな。でも、そういうときって、春野みたいな“勘のいい鈍感”が一番危なかったりするから、気ィつけろよ?」
* * *
それは、黄ばみかけたコピー用紙だった。
平成十年頃の記録。内容は、学生による簡易な目撃証言。
「これ……“部誌”っすか?」
「ええ。昔の部員たちが残してた、“怪異ファイル”のひとつ。
ルールもない自由帳みたいなもので、見たこと、感じたことを書き残してるだけよ」
「ってことは……半分都市伝説、みたいな?」
「そう。でも――中には、妙にリアルな記録もある」
千景先輩が指さしたページを読んだ瞬間、背筋がぞくりとした。
『文化研究棟 地下倉庫横の鏡。映った“もうひとつの顔”が、こちらを見ていた。
目をそらしたが、視線だけが刺さるように残った。
視線が“脳に入り込んできた”。逃げられない。誰か、誰か、誰か。』
「……この記録。今の怪異と、かなり似てるっすよね」
千景先輩は何も言わず、用紙を見つめたままだった。
ページの角を、指でぎゅっと押さえる手が、わずかに震えている。
「先輩……?」
その反応を、俺は初めて見た。
冷静で、理詰めで、絶対に揺れないと思っていた千景先輩が――
今、言葉を失っていた。
「……この記録を書いた人って、わかるんすか?」
「名前は書いてない。でも……内容が、ある出来事に酷似してる」
「……もしかして、“妹さん”……?」
千景先輩は、目を伏せたまま、ゆっくりと息を吐いた。
その沈黙が、何よりもの答えだった。
そして、かすかに唇を動かす。
「……似てる。あのとき……あの子が怯えた時の顔と、同じ言葉が並んでる」
* * *
その夜、俺はなぜか眠れなかった。
怪異の記録。妹の話。千景先輩のあの反応。
――視たら、始まる。
誰が言ったのかもわからないその言葉が、頭の中で何度も反響していた。
俺は、“視て”しまったのか?
それとも、俺はまだ、“視えて”すらいないのか。
目を閉じると、あの鏡の奥にあった“何か”の気配が浮かび上がる。
黒く、重く、形のない“視線”。
やっぱ、寝れるわけない。
* * *
翌日、部室。
ひとりで資料を整理していた千景先輩の背中が、いつもより少しだけ、頼りなく見えた。
その視線の先には、あの記録が置かれている。
俺は声をかけるタイミングを逃して、
ただ静かに、その背中を見つめていた。
先輩の肩が、ゆっくりと上下する。
呼吸を整えているようにも、何かを押し込めているようにも見えた。
「……春野くん」
名前を呼ばれ、思わず背筋が伸びた。
「この件……もう少し、私と一緒に追ってくれる?」
「もちろんっすよ」
千景先輩が、ほんの一瞬だけ、口元で微笑んだ。
その笑みは、少しだけ弱くて、少しだけ――優しかった。
読んでくださってありがとうございました!
今回は、過去の“怪異の記録”をきっかけに、千景の中の“何か”が動き出した回でした。
ふたりの関係も、言葉にはならないまま少しずつ進んでいるような、そんな空気感を意識しています。
次回は、いよいよ“あの出来事”が静かに姿を現します。
よかったら、もう少しだけ、ふたりの歩みを見守ってあげてください。




