第10話:見ようとしなかった夜
部室の窓から差し込む春の日差しが、机の上をふんわり照らしていた。
千景先輩はいつも通り本を読んでいて、
俺はいつも通りサークル用のノートを広げて――
……いるフリをしていた。
「春野くん」
「は、はいっす!」
「さっきからページ、めくれてないわよ。二十秒どころか、三分以上」
「……気づいてたっすか」
「気づかないふりをしてたのに、勝手に白状するとは。ある意味器用ね」
「いやなんか、落ち着くっていうか。
先輩と静かな部室って、わりと俺、好きなんすよ」
「ふうん。……それ、気安く言っていい台詞じゃないって、自覚してる?」
言いながらも、千景先輩の口調はどこか和らいでいた。
そう。
この数日で、俺たちはほんの少しだけ“話しやすくなった”気がする。
怪異との遭遇。
視えるようになってきた自分。
そして、千景先輩の、ちょっとした変化。
全部を言葉にするのは難しいけど――
こうして並んで座っているだけで、どこか安心できる気がした。
* * *
「……そういえば」
ふと、千景先輩がノートから目を離し、遠くを見るような表情になった。
「前に、日葵が話してたわよね。“部室の資料、抜けてるページがあった”って」
「あ、はい。結局どこいったかわかんなかったっすけど」
「たしか、例の“鏡”に関連する記録が、抜けてたはず」
「まさか、怪異の仕業……ってことはないっすよね?」
「……わからない。でも、あのページをもう一度探したい。
今夜、少しひとりで資料室を見ておこうと思うの」
「えっ、先輩ひとりで?」
思わず声が上ずった。
「資料だけが目的じゃないの。……“この時間に出る何か”がいる気がするのよ。
それに……あの夜のことを思い出すのは、どうしても“夜”なの。
あの時も、妹が“見た”のは……夜だったから」
「……妹?」
反射的に聞き返していた。
千景先輩は、一瞬だけ目を伏せ、
そして静かに首を振った。
「行ってくるわ。今日は一人で、ちゃんと確かめたいの」
それ以上、彼女は何も言わなかった。
けれどその背中が、少しだけ――遠くに感じた。
「……無理はしないでくださいよ。
俺、いないとダメだったら、いつでも飛んでくるっすから」
「ふふ、頼もしいわね。……でも、本当に大丈夫。
今夜は少しだけ、“自分の記憶”と向き合いたいから」
* * *
夜の大学。
静まり返った資料室に、千景の足音だけが響いていた。
非常灯の淡い光が、棚に並ぶ古びたファイルの縁を鈍く照らす。
その奥に――見覚えのある背表紙を見つけて、立ち止まる。
「……やっぱり、ここにあったのね」
記録は一部破れていた。
肝心の“出現条件”や“封じ方”についての部分が、ごっそり消えている。
「……あのときと、同じ」
ぽつりと、誰にともなくつぶやいた瞬間――
ふっと、空気の温度が変わる気がした。
頭の奥に、声が響く。
『お姉ちゃん……あれ、怖いよ……見てる、見てるよ……』
――違う、これは記憶だ。
もう聞こえるはずのない、あの日の声。
千景は目を閉じた。
思い出す。
あの日、妹は――“視えていた”。
けれど自分には、何も“視えなかった”。
「信じられなかった。……信じるのが、怖かっただけなのに」
あの夜、妹が震える手で何かを指さしていたこと。
その先に、誰もいなかったこと。
けれど、妹の瞳には――確かに“何か”が映っていたこと。
「――私は、見ようとしなかった」
千景はそっとファイルを閉じた。
その指が、かすかに震えていた。
* * *
その日の夜遅く。
千景先輩が戻ってきたのは、部室の明かりを落としたあとだった。
俺はまだそこにいた。なんとなく、帰る気になれなかったからだ。
ドアが静かに開き、千景先輩の姿が現れる。
「……まだいたの?」
「……なんか、帰る気がしなくて」
千景先輩は黙って部室に入り、俺の隣に座った。
少しだけ、肩が触れそうな距離で。
「収穫は、あったっすか?」
「少しだけ。……でも、確かめたかったことには、ちゃんと向き合えた」
そう言って、彼女はふう、と静かに息を吐いた。
その横顔が、なんとなく“疲れてる”ように見えて――
俺は、思わず口を開いた。
「先輩。……俺、あんまり力になれてないかもしれないっすけど」
「……違うわ」
千景先輩が、俺の方を見た。
「あなたがいると、気が抜けるの。
だから、危ないって思うこともあるけど……でも、それ以上に安心する」
そう言って、ほんの少しだけ――顔が近づいた。
俺の心臓が跳ねた。
この距離――あと、ほんの少しで。
――やばい。これ、やばい。
さすがに“今のこれは”、そういう空気すぎる。
「……キスするかと思った?」
その声が、すぐ目の前から聞こえた。
「っ……! い、いやいやいや、まさか!そんなことあるわけが……っす!」
「……残念。今のは、そういう“間”だったのに」
千景先輩がふっと目を細め、肩をすくめて笑った。
「春野くんは、もうちょっとがんばらないとね」
からかうようでいて、どこか本気。
あれが冗談だったのか、それとも――そうじゃなかったのか。
……残念ってなんだよ、残念って。
わかってて言ってるなら、
やっぱりこの人は、ちょっとずるい。
読んでくださって、ありがとうございました!
第10話では、千景の“過去”が初めて静かに顔を覗かせました。
視えなかった自分、見ようとしなかった記憶、そして妹への後悔――
それでも前を向こうとする彼女の姿に、春野がどう寄り添えるかが、今後の大きな鍵になっていきます。
そしてもうひとつ。
届きそうで届かない、けれど確かにあたたかい“距離感”を描きました。
あのやりとりの中に込められた想いを、感じていただけていたら嬉しいです。
次回は、視える者と視えない者――
その間にある境界線を、もっと深く掘り下げていきます。
どうぞ、お楽しみに!




