第9話:ふたりの距離、心の隙間
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翌朝、目が覚めた瞬間、なんとなく“世界が違って見えた”。
部屋の天井も、窓から差し込む光も、普段と何も変わらないはずなのに。
なのに、昨日のあの一瞬――
千景先輩と、あの距離で見つめ合った時間だけが、妙にくっきりと残っている。
(……なんか、変な夢でも見たか?)
自分の頭に問いかけるように、軽く額を押さえる。
でも、夢じゃなかった。
確かにあのとき、俺は――
「いやいやいや、勘違いだって。たぶん、緊張とかアレとかそういうので……」
独り言でかき消しながら、布団を跳ねのけて立ち上がった。
* * *
昼休み、部室を覗くと千景先輩がひとりで本を読んでいた。
昨日の夜のこと、話すべきか、黙っているべきか。
ドアの前で逡巡していたそのとき――
「入るならどうぞ。……ずっとそこに立たれてると、気が散る」
声も出してなかったのに――
気配だけでバレるって、どんな観察眼してんだこの人。
「うわ……感知能力高すぎっすわ……」
ぼやきながら、ドアを開けて部室に入る。
「おはようっす。……昨日は、その、お疲れさまでした」
「春野くんも。……怪我がなかったのが何よりね」
「先輩こそっすよ。……あのとき、俺をかばってくれたじゃないですか」
「かばったつもりはないけど。咄嗟に手が動いただけよ。
……むしろ、引き寄せたのはあなたのほうだったと思うけど」
「そ、それは……えっと……」
こめかみに汗が滲む。
やっぱり覚えてたのか。あの距離。あの瞬間。
忘れようとしてたのに――
「……気にする必要はないわよ。怪異の出現に即応しただけ」
「いや、そうは言っても……」
思い出すと顔が熱くなってくる。
この人、いつも通りのテンションで言うから逆にタチが悪い。
俺が勝手に意識してるみたいで、情けないにもほどがある。
「……ふふっ」
不意に、笑い声がこぼれた。
え? 今の、笑った……?
顔を上げると、千景先輩は目元を手で隠しながら、かすかに笑っていた。
「何、そんな顔してるの。……緊張しすぎよ、春野くん」
「だ、だってあんな至近距離で……」
「……そっか。じゃあ――」
千景先輩が、スッと本を閉じてこちらを見た。
「今度は、怪異抜きで。ちゃんとその距離を試してみる?」
鼓動が、一瞬止まりかけた。
「……冗談よ」
千景先輩が目を細めて、ほんの少しだけ、悪戯っぽく笑った。
「っすよね……! いやもう、焦ったっす……」
肩の力が抜けた拍子に、ため息が出た。
けどそのあと、なぜか――
少しだけ、残念に思った。
* * *
その日一日、講義中も頭のどこかで千景先輩のことがチラついていた。
いつも通りの授業。
いつも通りの友達との会話。
だけど、ほんの少しだけ景色が違って見えるのは――
(……なんか、戻れない気がするな)
そう思ったとき、スマホに通知が届いた。
『今日、資料室でちょっと確認したいことがあるから付き合って。21時に部室前で』
送信者は千景先輩。
簡潔だけど、そこに妙な緊張感はなかった。
(……これって、調査ってことでいいんだよな?)
自分に確認するように、スマホの画面を見つめる。
でも心のどこかで、少しだけ期待してしまっている自分がいた。
* * *
部室の扉を開けると、空気が違った。
昨日ほどではない。
でも、確かに――“何か”が、そこにいる気がした。
千景先輩は俺のすぐ後ろで立ち止まり、ゆっくりと室内を見渡す。
「鏡の前、特に変化はない。布も触られてない。
……でも、空気は昨日と同じ。何かがまだ“残ってる”気がする」
「じゃあ……今日は“静か”ってことで?」
「見た目は、ね。……でも」
千景先輩が、俺の顔をまっすぐに見た。
「春野くん。……ほんとは、何か“視えてる”んじゃない?」
「え……?」
意味が飲み込めなかった。
「昨日、鏡の怪異が出たとき――あなた、明らかに“影”を認識してた。
それだけじゃない。ここ数日、あなたの視線、時々……“何か”を追ってる」
ドキリとした。
そんなつもりはなかったのに、無意識に目で追ってたってことか?
「俺……霊感なんて、無いって……」
「最初は、そうだったと思う。
でも、“変化”は突然起こることもある。強い怪異に接触した影響で、感覚が“開く”こともあるの」
「開く……って、つまり俺、“視えるようになってきてる”ってことっすか?」
「可能性は高い。
ただし、視えるようになるってことは――“視られる”ようにもなるってこと」
その言葉に、ぞくりと背筋が震えた。
今まで、俺が“気づかなかっただけ”で――
ずっと、あいつらに視られてたのかもしれない。
「……怖っ……」
思わずつぶやくと、千景先輩が静かに言った。
「もし本当に視え始めているなら、これからは覚悟して。
今までみたいに“知らなかったから平気”では済まされない」
その目は真剣だった。
でも、どこか――俺のことを“心配してる”ようにも見えた。
「……でも俺、やっぱ怖いのも気になるんすよ。
いままで“視えないから安全圏”にいたっすけど、実際にアレに触れたら、余計に“ちゃんと知りたい”って思っちまって」
苦笑しながらも、言葉に迷いはなかった。
「好きなだけだったものに、“触れちゃった”感じっすかね。
知っちまったら、もう戻れないっすよ」
千景先輩は、少しだけ目を見開いて、やがてゆるく息を吐いた。
「……そう。なら、私も本気で教えるわ。
この世界のこと。“視える者”としての、基本を」
スッと距離が近づく。
千景先輩の手が、俺の胸元を軽く押した。
けれどそれは拒絶じゃなく、まるで“ここに立て”と促すような動作だった。
「春野くん。ちゃんと、自分で選んで踏み込んだのね」
その声が、妙に胸に響いた。
俺は、ただうなずいた。
* * *
調査は特に何も起こらず、ふたり並んで部室を出た。
学生会館を出た夜道、冷たい風が吹き抜ける。
「春野くん」
ふと呼ばれて、横を向く。
「……ほんとに、無理はしないで。
“怖くないふり”が一番、危ないから」
「……はいっす。
でもたぶん……先輩が隣にいてくれたら、大丈夫っすよ」
俺の言葉に、千景先輩は目を細めた。
夜風のなかで、少しだけ髪が揺れた。
「……そうね。
じゃあ、ちゃんと隣にいてあげる。今だけは」
その“今”に、どこかくすぐったい意味を感じたけれど――
それでも俺は、素直にうなずいた。
その日の夜空はまるで、ふたりの歩調に寄り添うように、星たちが小さく呼吸するように瞬いていた。
なんちゃって。
読んでいただき、ありがとうございました!
第9話では、千景との関係性に小さな変化の気配がにじみ始めた――そんな一夜でした。
何気ないやり取りの中に、これまでとはわずかに異なる空気が流れ、
ふたりの心の距離も、ほんの少しだけ近づいたように思います。
一方で、主人公・春野にも新たな兆しが。
ついに“視えるかもしれない”という予感が現れ、
彼自身がそれと向き合う選択をすることで、物語は次のステージへ進んでいきます。
次回、第10話では――
千景の過去、そして怪異との“本当の向き合い方”が問われることに。
ふたりの距離がさらに近づくその瞬間を、ぜひ見届けてください。




