第8話:覗く影、重なる心
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翌日、俺はふらつく足取りで大学に向かった。
当然といえば当然だけど、昨日の“存在消失”事件のせいで全然眠れなかった。
警備員に無視され、声も届かず、まるでこの世界にいなかったみたいな感覚。
思い出すだけで、今でも足元がグラつく。
それでも大学に来たのは、あの出来事を“あいまいなままにしたくなかった”からだ。
それと、千景先輩に――もう一度、ちゃんと会いたかったから。
偶然を装って、講義帰りのタイミングを狙って部室へ行くと、ちょうど先輩が資料を整理していた。
声をかける前に、ふと立ち止まる。
窓から差し込む午後の光に照らされた千景先輩の横顔は、まるで何かを悟っているような、いつもの涼やかで凛とした表情だった。
「……なに。じっと見て」
不意に視線を向けられて、ドキッとする。
「いや、あの……資料、昨日の、ちゃんと返しに来ただけっす。
ついでにちょっと、その……昨日の件、もう一回ちゃんと話したいなって」
「……いいわよ。ちょうど私も、気になってたところ」
そう言って、千景先輩はスッと近づき、俺の手からファイルを受け取った。
そのとき、指先がほんの一瞬だけ触れた。
冷たいはずのその手が、意外にもあたたかかったのは、気のせいじゃなかったと思う。
「日葵からのLINE、ちょっと見返してみたんすよ」
部室の机に資料を広げたまま、俺はスマホを開いてスクロールする。
「昨日の夜、あの資料を取りに行ったあと、今日の昼にでも日葵に渡そうと思ってたんすけど……
ふと気になって、LINEのやり取り見返してみたら……ないんすよ。
頼まれたメッセージが、どこにも」
千景先輩が小さく眉をひそめた。
「……履歴を消した?」
「通知は来てたんす。既読もついてた。……だから、俺の記憶違いじゃないはずなんすけど……」
「本人に、聞いてみたら?」
「っすね。……念のため、今のうちに聞いときます」
スマホを持ち直して、日葵にメッセージを送る。
『昨日の夜、資料の件でLINEくれたよな?』
数分後、通知が鳴る。
『え? 昨日の夜?
私そんなの送ってないよ?』
「……うそだろ……」
背中をぞくりと冷たいものが這い上がっていく。
「どうかした?」
「日葵……LINE送ってないって言ってます。
“そんなお願いしてない”って……」
スマホを握る手に、じわじわと力がこもる。
「既読も通知も来てたのに。……でも履歴はない。
ってことは……やっぱ、あのLINE自体が――」
言葉を飲み込んだそのとき、横から千景先輩の指先が、そっとスマホの画面を押し下げた。
「春野くん。……今は、それ以上掘らないで」
その表情は冷静だけど、目の奥に微かな焦りがにじんでいた。
* * *
その日の夜。
俺はまた、学生会館の前に立っていた。
隣には、千景先輩がいる。
まるで、当然のように。
「……本当に、来てくれるとは思わなかったっす」
「ひとりで来るより、よっぽどマシでしょ」
そんな言い方だけど、ちゃんと俺の顔を見て言ってくれてる。
それだけで、少しだけ気が楽になった。
入館証の手続きと、研究資料の閲覧申請って建前で、夜の部室に入れる許可を取った。
時間は21時。まだギリギリ“日常”に片足を残せる時間。
「目的は“何が仕掛けられていたのか”の確認よ。
昨日のLINE、鍵のありか、あの倉庫部屋の扉……全部、怪異の“導線”だった可能性がある」
「……“導線”?」
「ええ。“あなたを部室に誘導するための手口”ってこと」
千景先輩の口調は冷静だったけど、目は鋭く光っていた。
部室の扉を開けると、昼間の静けさとは違う、澱んだ空気がまた肌にまとわりつく。
入った瞬間、千景先輩の肩がぴくりと揺れた。
次の瞬間、俺の手首を――千景先輩の細い指が、そっと掴んでいた。
……千景先輩が、こんなふうに怖がるなんて。
その事実に、逆にゾッとした。
この空間が、ただ事じゃないって――本能的にわかった。
「……別に、怖いわけじゃないのよ。念のため」
言い訳みたいに呟いて、手を離そうとする。
俺はその手を、そっと握り返した。
「俺がついてるんで、大丈夫っすよ。ちゃんと一緒に、調べましょ」
千景先輩の手が、少しだけ強くなった。
資料棚を調べ、倉庫部屋の扉を再確認し、千景先輩は黙々とチェックを進めていた。
俺は手元を照らしながら、ふと壁際の鏡に目をやった。
「……この鏡、たしか俺が前に“何かに覗かれた”やつっすよね?」
「そう。怪異の出現源のひとつと考えてる」
「けど……いまだに、“何が”見てたのかはわかってないんすよね」
「ええ。けど、昨日あなたが視た“影”と、この鏡の怪異……性質が似ている気がするの」
ふたりして鏡を見つめる。
沈黙が落ちたその瞬間――
鏡の奥が、ぐにゃりと揺れた。
「っ……!」
瞬間、背中に“何か”の気配が走った。
次の瞬間、鏡に映る“俺の姿”の背後に――
あの影が、立っていた。
「っ、先輩、下がって――!」
思わず千景先輩をかばうように手を伸ばした。
同時に、千景先輩の腕が俺を引き寄せるように抱き寄せていた。
互いの動きが重なり、そのまま――
距離が、なくなった。
息がかかるほど近くで、ふたりの視線が重なる。
鏡の中の影は、音もなくゆっくりと後退し、そして……消えた。
沈黙のまま、数秒だけ時間が止まったように感じた。
先に動いたのは、千景先輩だった。
俺の胸元に手を添えたまま、ほんの一歩だけ距離を戻す。
けれど、目だけは逸らさなかった。
「……ありがと。今の、助かった」
その声は、たぶん、今まででいちばん柔らかかった。
「い、いえ……その……先輩こそ、引き寄せてくれたっすし」
「どっちが先かはどうでもいいわ。
……でも、ああいうの、ひとりじゃやっぱり無理」
千景先輩が、少しだけ頬を染めたように見えた。
それが錯覚じゃなければ――
たぶん今、俺たちは――
確実に、変わり始めてる。
読んでいただき、ありがとうございました!
第8話「覗く影、重なる心」では、鏡の中に再び現れた“影”の怪異と向き合う中で、
拓海と千景の距離が物理的にも、心の面でも大きく縮まる転機を描きました。
怪異に“覗かれる”という恐怖と、誰かと“触れ合う”安心感。
そのギャップが、ふたりにとって大きな意味を持ち始めています。
また、LINEの記憶と履歴の食い違いから、“何かに誘導されていた”可能性も浮上。
怪異の正体は依然として謎のままですが、確実に何かが動き始めています。
次回――
日常に戻ったかのように見えるふたりを、さらなる“気配”が追う。
千景の視線が、いつもより長く、熱を帯びていく第9話も、ぜひお楽しみに!




