転移、増殖、変異
煌めくグラスを傾け、薄くなってしまったバーボンを一気に呷る。如何に度数が高いといえど、溶けた氷が混ざった酒は微かなアルコール臭を漂わせるだけの代物で、脳の思考回路を焼く程強いワケではない。空になったグラスを指先に吊らし、淡いランプの光に照らされた男はグラスの縁を人差し指の爪先で叩くとマスターへ次のバーボンを要求する。
過去は変えられない―――。当然だ、過去に戻れる方法は存在しない。今という時間軸を進み続ける人間が己の足跡……即ち記憶を振り返った瞬間に認識できる事実こそが過去と呼ばれる概念であり、言葉の意味。既に起こった事は変えられず、間違いだと気づいても今を生きる人間は進み続けねばなるまい。
現在は一方通行の円環に組み込まれた螺旋―――。古代の地球儀をぐるりと囲む緯度と経度の測定機、役割を与えられた者とは繰り返される事柄を再現し、模倣しては次へ繋ぐ装置である。役を熟す個人には権利と権力の代わりに重い鎖が繋がれ、自由の二文字は剥奪される運命なのだ。円環の中を駆けずり回り、螺旋のように続く状態を維持する舞台装置こそが人間の宿命である。
未来は明瞭とした幻が成す混迷たる夢想、過去にしがみつく神は明日を見ず、ただ蠢き震え狂うのみ―――。上の立場になり、要職に就いた男が知ったのは過去の友人が言っていた虚言が全て事実だったということだ。自分の意志で進んだ筈の道は既に整地され、整備されたレールの上。神を名乗る愚者は未来を否定し、自分達の理想郷を死守するために種を潰す。
この世界には希望だけが無い。そう言って姿をくらました友人の最期を男は知らなかった。上層街から中層街に落とされて、自分の意志で下層街へ落ちた友人は恐らく全てを知っていたのだろう。知っていた故に自分一人で何とかしようと決意し、失敗と挫折の末に塔の最底辺へ落ちたのだ。彼のことを良く云えば英雄気質の理想家、悪く云えば理想を追い求めた末に破滅へ驀進した大馬鹿者……。古い友人を思い出しながら酒をもう一度呷り、深い溜息を吐いた男は懐から一冊の文庫本を取り出し、擦り切れた頁を捲る。
辺獄を渡り、地獄に落ち、煉獄に清められ、天国…即ち楽園へ至る古典叙事詩。己には地獄の案内人など存在しないし、愛した女も居るはずが無い。煉獄で清められる罪悪は許容量を遥かに上回り、楽園へ至る為の案内人も存在し得ず。だが……古い友人の贈り物である文庫本を読んでいると、男は彼を思い出さずにはいられなかった。
本に登場する人物達と舞台設定に己等は一切関係無い。塔に閉じられた世界以外に人類の生存領域は存在せず、塔の外は異形の生物が跋扈する死の大地。いや、そもそも塔の中であろうとも下層、中層、上層と分かれた世界では極端な貧富の格差が存在し、下層街であれば命の価値は弾丸一発よりも軽いのだ。文庫本の内容と比較したら、下層街は辺獄と云って差し支えないのだろう。
暫く頁を捲り、本を閉じた男はスツールから立ち上がると防弾ガラスの窓辺に立つ。眼下に広がるのは輝くネオンと綺羅びやかな電子の海。身体改造した娼婦が男を捕まえては妖しく見つめ、子供は鎖に繋がれ商品として売り買いされる。淫欲に燃えて、癌細胞のように罪を肥やし、悪を振りまく欲望の街。下層街歓楽区は果てしない欲を滾らせ、燃え盛る永遠の薪であるのだ。此処でどんな悪を成し、罪に染まろうと全てはルールに則った合理的な行動で、正しい選択であると胸を張って言えようか。
だが……此処で成した罪悪を中層街に持ち帰ることは出来ない。中層民の幸福こそがサイレンティウム幹部の優先すべき職務である。故に、男……サイレンティウム統括部長ディックは命を脅かす潜在犯罪者を一掃するべく歓楽区に位置する大規模娯楽施設ヒドロ・デ・ベンゼンを利用し、罪人と一般人を仕分けたのだ。一階から三階までのサイレンティウム職員を全員粛清し、逮捕するために。
同僚、幹部、一般職員……どんな輩であろうとも中層街へ混沌を持ち込むことは許さない。 既に調査は済んでおり、証拠品も押収している。一切の慈悲も無く、躊躇わず、戸惑わない冷徹な意志こそがディックの強大な武器であり、総帥以外から恐れられる由縁。権力の使い道を誤り、権利を超えた自由を要求をする人間は彼にとって塵以外の何物でもなく、義務と責務を背負った上で口にしろと言う始末。厳しい顔つきに鋭い目つき、ガッシリとした頑丈な身体はスーツの上からでも筋骨隆々だと分かる程に鍛え上げられ、彼が老人であると見て取れる場所は白髪と顔に刻まれた深い皺だけだった。
もし……億万分の一の可能性で友人が生きていようとも、今のディックを見たら友人は気がつくだろうか? 何時ものように肩を叩き、笑いかけてくれるだろうか? いや……ありえない。もしもという不確実性が孕む事象に期待してはいけない。希望を夢見て何度も抗えぬ絶望を見た。無駄という言葉の意味を嫌という程味わい尽くし、無意味と突き放すべき辛酸を舐めては拳を握りしめる。彼が生きていたとしても……己よりも齢が上なのは確実。生きていても骨と皮の屍染みた老人の筈。
携帯端末を取り出し、下層街治安維持部隊隊長へコールしようとした瞬間、ヒドロ・デ・ベンゼン五階の扉が静かに開く。
扉の先に立つ人物はドレスを纏った中性的な美男子とスーツを着崩した野獣のような青年だった。ディックは携帯端末をポケットへ押し込み、背筋を伸ばして「グローリア総帥、何用でしょうか」と深々と頭を垂れる。
「ディック、事は順調に進んでいるかい?」
「ハッ……全ては貴方様のご意思のままに。密造プラントの所在、生成記録、出荷帳簿も全て此方が把握しております」
「そうか、何から何まで世話になるね」
「それが私の職務ですので」
手を叩き、スツールに腰を下ろしたグローリアはマスターへジン・トニックを一つ注文し「ダナン、君も座りなよ」と笑顔で話す。
「……お前が来たかったバーとは此処か?」
「そうだよ? 仕事があってね」
「……」
ダナンの視線がディックへ向かれ、男の突き刺すような眼と交差する。
憤怒、驚愕、懐疑、安堵……ディックの瞳には様々な感情が渦巻き、それは正に蠱毒の様。一切姿勢を崩さず、それで尚何時でも拳を振るえるように立つディックはダナンへ大股で近づくと「ダナン……それがお前の名前か?」と静かに言う。
「ディック、すまないね。紹介が遅れた。ダナンは私の友人で、此処まで私を連れてきてくれたんだ。そうだろう? ダナン」
「……友人かどうかはさて置き、何だ? 俺の名前に文句でもあるのか?」
「……」
暫し沈黙したディックは無理矢理ダナンをスツールに座らせると「マスター、この小僧にバーボンを頼む」酒で満たされたグラスをダナンの前に滑らせる。
「何のつもりだ」
「……小僧、貴様に親は居るか? それか祖父か祖母は」
「何故話す必要がある。そんなことお前に関係無い筈だが」
「話せ」
「……」
低い声色の中に真意を探る確固たる意志が宿り、微かに濁った白い瞳がダナンを射抜く。離さなければ開放しない。此処は部外者に圧倒的不利を強いる場所だと……言葉無くそう云ったディックに渋々「育ての老人が居た……。もう死んだが、老人から貰った名前がダナンだ」とダナンが話す。
「……老人」
一言そう呟き、胸ポケットから煙草の箱を取り出したディックは軽く揺すって煙草を一本口に咥え、ジッポライターで火を着ける。
細い紫煙が煙草の先から上り、溜息と共に煙を吐いたディックは「そうか……。あぁ、アイツは……本当に、死んだんだな」と悲哀混じりの表情を浮かべ、煙草を灰皿の窪みに置いた。