地下通路
濃い疲労が肉体を蝕み、途切れぬ警戒心と緊張感が精神を金ヤスリで次第に、少しずつ、確実に削ぎ落とす。
渇いた唇を舌で舐め、無意識に込められていた指の力をアサルトライフルの引き金から抜いたダナンはリュックサックを広げるとゼリーパックを一つ取り出しチューブを通して中身を啜る。
腹が減っていなければ、喉も乾いていなかった。だが、こうして遺跡の仄暗い闇の中を歩いていると、己が生きているのか死んでいるのか分からなくなる。固いブーツの靴底が地面を叩く音が幻聴であると誤認し、目に見える全てが幻であると錯覚してしまう。
生きている実感が欲しい。心臓の鼓動が命の在り処を示していると、身体中に流れる血潮の熱が生を刻んでいると云う確たる証拠が欲しい。己はまだ死んでいないと、生きていると信じたい……。
荒い息を吐き、心臓へ意識を向けたダナンは内で蠢く異物の気配を感じ取り、それが全身から鳴り響いていることに気づく。
ルミナの蟲……。イブがダナンに植え付けた蟲は悍ましい囀りを青年の耳元で囁き、少女が心臓を……命を握っていると嘯くのだ。抵抗しようと意味が無いと、諦めた方が身の為だと、無駄な足掻きは止めろと、何度も、何度も、己が存在をダナンへ刻む。
這い寄り、身に抱きつきしがみつく死霊。振り払おうにも振り払えず、殺そうとしても殺せない。肉体に潜むルミナは彼に従うよう頻りに胎動し、細胞の一片にまで融合と侵食を繰り返す。
おかしくなりそうだ。狂ってしまった方が楽なのかもしれない。狂気の海に身を沈め、無意味な藻掻きを見せずに流されてしまえば、何も考えなくていい。しかし、それはダナン自身が許さなかった。楽な方へ己から進む事だけは許せない。
頭を押さえつけられ、身体と精神を縛られる程ダナンの反抗心と反骨心は増大し、理不尽や不条理を跳ね除けようとする力は強くなる。追い詰められ、傷を負った獣の様相を見せる青年はルミナが与える苦痛に苛まれながらも暗い通路を歩き続けていた。
「ダナン」
「……」
「ねぇ聞いてるの? 貴男、すっごく顔色が悪いわよ?」
「……」
「少し休んでもいいわ。今の貴男じゃ」
「今の俺じゃなんだ? 少し黙れよ、イブ」
「……何よその言い方。言っておくけど、耐え忍んでいることはお見通しよ? 貴男の生体反応は手に取るように分かるんだから」
堪らず壁に肩を預け、咳き込んだダナンを見据えたイブは腕を組み、溜息を吐く。
「ルミナの適合段階が上昇しているようね、疲れた身体でアレが与える苦痛に抗うなんて普通じゃないわ。ダナン、もう一度言うけど……休みなさい。見張りは私がするから」
「……必要ない」
「なに? ハッキリ言えばいいの? 足手まといよ、貴男。馬鹿みたいに我慢して、愚者の行軍を進めるなんて愚者でもしないわ。ダナン、無意味な」
「黙れ……‼」
「……」
「お前が俺に指図出来る立場なのは知っている。なんせ俺の心臓を……命を握っているんだからな……‼ だが、それで俺を止められると、制御できると思うなよ……‼ 俺はお前なんかに、俺以外の誰かに、殺されない‼ 命の使い方は……俺自身が決めることだ‼」
頭痛が酷い。脳味噌を直接金槌で殴られているような、覚醒状態のまま頭蓋を開かれているような不快感。込み上げる胃液を飲み込み、視界に這う蟲を払ったダナンは通路の端に在る丸型の鋼鉄扉のハンドルを握る。
固く、錆びたハンドルは生身の腕だけでは微動だにせず、機械腕の膂力を用いてやっと回った。甲高い金属音を……不快な音を奏でながら開いた丸扉の先は非常灯がポツリポツリと灯る狭苦しい通路。
「……」
錆混じりの汚水と鼻孔を突く腐敗臭……。滑ったヘドロが沈殿し、溶けた腐肉に群がるゴキブリが一斉に羽根を広げ、通路から飛び出しダナンの視界を黒に染めた。
下層街が地獄なら、此処は辺境かその外郭。遺跡はさながら奈落へ至る道。何処へ向かおうと、何を目指そうと、深淵から逃れる術は無い。彼等の死線は常に正者の背に張り付き、命を虎視眈々と狙っているのだから。
「……行くぞ」
「え? 此処を通るの? 冗談でしょう?」
「俺が一度でも冗談を言ったことがあるか? メインゲートを通らずに下層街へ上がる道は此処が一番近い」
「……最ッ低」
「そうか」
錆水の中を歩み、闇へ踏み出したダナンとその後を嫌々ながらも追うイブは、所狭しと伸びる金属パイプに手を掛け進む。
「ねぇ」
「……」
「道、本当に合ってるの? 適当に進んでるわけじゃないんでしょう?」
「……昔」
「昔?」
「昔、俺がまだガキの頃、爺さんに連れられて通った事がある。今俺達が通っているルートは遺跡と塔を繋ぐ裏ルートの一つに過ぎない」
「裏ルート……」
なら表のルートは―――イブが口を開いた瞬間、天井から下半身が溶けた男の死体が落ち、赤茶色の汚水に沈む。
「上に注意しろ。人が落ちてくる」
「ちょっと……どうして人が」
「知らん」
「知らんって……それは変でしょう? 人が落ちてくることに何の疑問も抱かないワケ?」
「気にする必要が無い」
唖然とし、水の中で藻掻く男の上半身を引っ張り上げた少女は彼の顔面を視界に映し、硬直する。
無貌。その一言が正しいだろう。目を繰り抜かれ、耳と鼻を削ぎ落された男は針金で縫われた口から夥しい量の血を吹き出し、遺跡の毒素によって徐々に腐り始めていたのだ。
「なによ、これ」
「知らん」
「知らない筈が無いでしょう⁉ これは、こんな事、人間がする事じゃない! ダナン、此処は」
「イブ」
青年の瞳が錯乱する少女を射抜き、上を指差した後、耳を軽く指先で叩き。
「あまり声を荒げるな。連中に気付かれる」
「連中って」
「肉欲の坩堝の狂人どもだ。俺の予想じゃ上では酒池肉林の狂乱が行われている。恐らくだが……その男は新手の新興宗教の信者だろうよ。上半身の何処かに刺青が入っている筈だ。見てみるといい」
瀕死の男が纏う襤褸を捲り、背中に入れられた脳と機械が絡み合った刺青を発見したイブは己の足に抱き着こうとする男へ強烈な嫌悪感を抱き、銀翼で彼の首を撥ねると音も無くダナンの傍に近寄った。
「どうした」
「……別に」
「……コイツは」
「……」
「この男は幸運な方だ」
「何処が―――‼」
「必要以上に苦しまなかったから。腐敗する痛みは最小限で済み、虫や地下鼠に生きながら貪られる事も無い。だから幸運だと言った。イブ、此処に落ちてくる連中は俺の経験則じゃ皆苦痛に苛まれながら……最後の最期まで痛みの中で死んでいく」
片腕を失い、パイプにもたれ掛かった白骨死体を指差し、イブに首を撥ねられ絶命した男とを見比べたダナンは通路に響き渡った叫喚を聞き「多分……アイツは救われたんだろう。最期の瞬間に」と呟く。
「……貴男は、死が救いだと言っているの?」
「別にそう解釈しても構わない。死が救いになるのなら、人は皆救われていると見ることも出来る。だが現実は違う。死は救いなんて与えないし、最後に押し付けられる絶望だ。
死ぬ事で満足出来る人間がこの世に何人居ると思う? 死を望み、死を最初から願っている人間が居ると思うか? 生きてこそ……生き残ってなんぼなんだよ、人間って奴は」
独り言のように、明確に死を否定したダナンは少し進んだ後に見えた細長い円筒型のエレベーターを発見すると、押し殺していた息を吐き、血垢がこびり付いた操作パネルを指でなぞる。
「……死ぬことは簡単だ。銃口を蟀谷に当て、引き金を引けば人は死ぬ。ナイフで首を掻っ切り、血を止めずにいればその内死ぬ。だけど……生きる事は難しい。何をもって生きているのか、どうしたら生きているという実感を得る事が出来るのか……。そうだろう? イブ」
そう言ったダナンは切れかけた電灯が照らすエレベーター内へ身を滑り込ませ、少女を手招きした。