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第31話 生きるに値する命のためのレクイエム

 1937年春。

 ベルリンの大学に暗い顔の若者たちが集まった。

 ヅィンマン先生のオペラプロジェクトメンバー、挫折した『死の都』上演計画のメンバーたちだ。

 青ざめた顔のマリー、エミール、旅支度を済ませたゲアハルトやイヴァン、夜の衣装を着た二日酔いらしいアンナ。

 金持ちの親から日本に呼び戻されたというシンノの姿はなかったが、すっかり痩せたキムは、オペラでも衣装として使った厚手の毛のコートを着ている。

 3月にローマ教皇ピウス11世による、ユダヤ人迫害を非難する回勅が出されたが、ドイツのカトリック教会にこれと呼応してナチスに抗議する動きはほとんどなかった。

 人々の間には冷たい絶望が広がって行った時期である。


「今日より後は、このメンバーで集まることは難しくなるでしょう。私もゲアハルトもイヴンも国に帰るし、シンノはもう帰ってしまったし」


 どこで犬が窺っているか分からないから手短に行くわよ、と前置きし、鞄を開いたミリヤナは、何冊もの楽譜を取り出した。


「次の公演までの宿題。再会した時一発で合わせられるように、譜読みをしておくこと。それが課題です」


 舞監らしくはきはきした物言いを、彼女は急に顰めた。

 短く切った赤毛が細かく震える。


「……私経由、ヅィンマン先生からの課題です」


 皆は驚いて渡された楽譜を見た。

 ワグナーの楽劇『ニュルンベルクのマイスタジンガー』だ。

 だが表紙をめくると分厚いページの中ほどから中がくりぬかれ、一回り小さなノートが入れ込まれていた。

 題名は『Requiem für ein lebenswertes Leben』


 『生きるに値する命』……エミールが呟いた。

 作曲者名はミリヤナ・アシュバンとI・Z。作詞もI・Zになっている。イサ―ク・ヅィンマン先生だ。


「『生きるに値する命のレクイエム』。これを私とイヴァンは託されたの。いつか演奏出来る世の中になったら、またみんなで集まってやろうって」


 だから……と、ミリヤナは喉を詰まらせた。

 一度も弱気を見せたことのない、誇り高いセルビア人の彼女が見せた、ただ一度の露わな感情の揺れだった。


「では、オペラプロジェクトは、解散ではなく休会を宣言します。またこの街で」


 またベルリンの街のホールで。

 大学の奏楽堂で。

 リンデンの木の下で。


 一同は固い握手を交わし、そしてその場を離れた。


『生きるに値しない命』のフレーズは1920年代、ドイツの著名な刑法学者ビンディングと精神科医ホッヘによって提唱された。

 重い病人やけが人、先天性の重度な心身障害社などを社会の負債と見做し、社会的な保護の対象とせず、むしろ親族などからの要請があれば命を奪う事も許容されるべきであるという、おぞましい優生学の極論の一つである。

 だがこの考え方は、けしてナチスおよびこの時代のドイツ特有のものではなく、 優生学自体がそもそも新大陸・アメリカで提唱され始めたものである。


 2016年7月26日に神奈川県相模原市で起こった、福祉施設における元職員による大量殺人事件における衝撃を、我々は忘れてはならない。


 夏、ドイツ空軍のコンドル軍団がスペイン内乱下のゲルニカの街を空爆した。

 1939年9月1日、ドイツはポーランドに侵攻を始め、ヨーロッパは再び戦火に包まれた。

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