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第3話 ヒトラー内閣成立前夜・2

 イサーク・ヅィンマン助教授のオペラプロジェクトは、大学の後援を得ているわけでも、帝国音楽院のお墨付きを得ているわけでもない。

 ユダヤ系のヅィンマン自身、身分が不安定で、講義のコマ数も生徒の数も限られている。

 いうなれば学生たちの自主サークルの助言者、という程度の参加だと、そう大学当局側に届け出ていた。

 自分と学生たちの身の安全のためである。

 だが若い頃イタリアに留学し、情熱的なオペラを充分に吸収した彼は、ワイマール・ドイツの頭でっかちな「歌劇」、中でもワグナー一族が政権と結託し、始めたバイロイト音楽祭、大がかりな「楽劇」の観念的な方向に疑問を抱いていた。

 音楽は、オペラは、人とつながり作り上げる空間芸術はもっとシンプルでよい。

 そう考えるヅィンマンは、受け持つ生徒たちの最初の本格的な舞台に、毎年「ラ・ボエーム」をとりあげていた。

 若く食えない芸術家崩れの若者、パリのボヘミアンたちが恋をし、貧しさと病と嫉妬でどうしようもなく別れていく。

 その年齢でしか体験できない瑞々しい感情と肉体感覚を、なにより歌い手の卵たちに感じてほしい。


 帝国音楽院が推奨する高尚なるドイツ音楽も、彼らが忌み嫌う時事的な素材の劇音楽、ジャズ、無調的な響きの音楽も、ヅィンマンには「好事家の行きついた先」にあるもののように感じられた。

 それよりもまず柔軟性のある若い肉体、のど、笑顔、情熱。それらを解放してあげる事が先決だ。


 ヅィンマン助教授の理想は高邁だが、実はまだスタート地点にも立っていなかった。

 まずは劇中に欠かせない二人のヒロインを確保することが最優先だ。

 可憐で病弱なお針子のヒロイン・ミミと、たくましく自立心旺盛なムゼッタがいない事には、理想も練習も一ミリたりとも進まない。

 かくして四人の男声歌手たちは、女声の出ない一幕冒頭と四幕一場を、練習開始以来延々と繰り返しているのである。


「女がいない」


 ロドルフォ役のテノール、エミールがこぼすと、武骨な低声歌手たちが我も我もと同意した。


「女だ、とにかく女だ」

「歌えて演技が出来て、踊れてコケティッシュなムゼッタであれば言う事はない」

「加えて、ミミは可憐で清純で、守ってやりたくなるような弱々しさが欲しいよ」

「いつも同じ面子の男と歌ってじゃれていても、虚しくなるばかりなんですよ、先生」


 背の高いヨーロッパ男子の叫びに、伴奏の稽古ピアノ(コレペテトゥーア)を務める日本人のシンノゼンジロウと、黒い毛のコートを着てコッリーネを歌うキム・スギョンがため息をつく。


「僕らの国にはミミのような、健気で男が護りたくなる女性は沢山いるけどね」

「そりゃそうだ。東洋のチョーチョーサンのお国だしな」


 ショナールを演じるゲアハルトの言葉に、朝鮮の釜山出身のキムは微かに顔を曇らせた。


「ミリヤナ、演劇学科のお仲間にいい感じのソプラノは居ないかい?」


 ヅィンマン先生の言葉にベオグラードっ子のミリヤナは嘆息した。


「あたしの友達ですか? 居ても絶対に紹介なんかできませんわ」

「どうして?」

「こんな文句ばかりの責任なき野郎たちの中に、自分の知り合いなんか招き入れられません」

「確かに」


 パタン。エミールが楽譜を閉じながら嗤った。


「血の気の多いセルビア女性なんか、ミミにもムゼッタにも向かないさ」

「ペインティングナイフで喉を割かれたいようね」


 舞台のイメージスケッチをしていたミリヤナが、腰の作業袋から静かにナイフを取り出した。


「そんな、突撃隊の奴らみたいな真似を」

「冗談よ。目には目を、歯には歯を」


 イサーク先生の言葉に、女は静かにナイフを収めた。


 使用料代わりにその日の皿やジョッキを全部洗い、エミールたちは稽古場代わりのビヤホールを後にした。

 アレクサンダー広場は夜が更けても鎮まる事を知らない。

 ここだけワイマール政権末期の爛熟した空気をとどめているようだ。

 短い断髪に濃い化粧の歌姫、ホステス、ウールのコートに身を包みシルクのマフラーを巻いた客の紳士らが肩を抱き合い、もつれるように歩いてゆく。

 ドイツランド的健全剛健を旨とするナチス党の主張とは相いれない、淫らで猥雑な繁華街。喧騒と欲望の街。それが夜のベルリンだ。


「またな」

「ああ。今度こそヒロインを交えて」


 ヅィンマン助教授、キム、ゲアハルトが次々とエミールに背を向けて夜の街に消えてゆく。


「あのさ、みんなもうちょっと待って、話そうよ」


 エミールはふと激しい不安に駆られ、別れた友の後ろ姿に声をかけた。

 夜の濃い藍色の空気に、帰っていく仲間たちが、一人また一人と残らず飲み込まれていくようで、引き返して追いかけてもその手が届かない、わけもない焦燥感に駆られたのだ。


「どうしたエミール、みんな行っちゃったよ」


 色白の涼し気な目の日本人、シンノだけが寒そうにマフラーに首を沈めながら返事をしてくれた。


「このままみんなと会えなくなってしまいそうな気がして」


 エミールが青ざめた顔を向けてもシンノは晴れやかな笑顔を崩さない。


「そんなことないだろう。また来週練習で会えるじゃないか。本番が近くなったらほぼ毎日、嫌でも顔を合わせる事だし」


 シンノゼンジロウは仕立ての良い自分のコートからマフラーを外すと、粗末なエミールの外套の首に巻いてやった。

 歌手は喉を冷やしては駄目だ。大事にしないとな。

 そうつぶやく彼の両手はこれまた上質の革の手袋に包まれている。

 夜の練習がない日は、大学の後カバレットの楽団の一員としてバイオリンを弾いているというシンノは、日本国内で名の知れた名家の子弟だと聞いた。

 そのせいかヨーロッパ人に比べれば背こそ低いが、物腰も柔らかくマナーも完璧で、よく訓練されたドイツ語の発音も美しく、上流階級特有の優雅さを漂わせている。

 同じ東洋人でも「ぷさん」という港町の出身だという、逞しい金とはまた異なる個性だ。

 二人はドイツ人の使う地図で見ると図面の端ギリギリ、文字通り極東のごく狭い地域の出身だが、内実は大いに違うのだ。

 エミールはシンノが金払いでもめた所を一度も目にしたことはないし、他の貧乏学生たちが中身の少ない財布をひっくり返し、自分の支払いをひねり出そうとしているのを見て、さっと出してしまう場面に多々出くわした。

 それを当てにしていないわけではないが、この細くて小柄なアジア人に、アーリア人である自分が奢られているという事実は、少々屈辱的だった。


「君はいつまでドイツに居るんだい?」

「大学を終えて、作曲とバイオリンで食べて行けるようになるまでかなあ。でもその前に日本の親に呼び戻されたらそれまでだけどね」


 シンノの日本の屋敷はトーキョーを襲った大きな地震にも影響を受けず、アメリカ人やイギリス人と貿易をして儲けているという。

 反対にコッリーネ役の金は母が苦労して日本の大学に進ませ、奨学金を得てドイツにやって来たらしい。

 ドイツの南部、バイエルン州のミュンヘンの田園地帯から出てきたエミールにとっては東洋の不思議な童話のようだ。


 二人は歩くうちにポツダム広場の近くまで来ていた。

 夜の街中を若者たちの怒声が響く。

 酔っぱらった突撃隊(SA)の男達が、ひそかに手をつないで歩く男同士のカップルを足蹴にしている。

 かと思えば、ユダヤ人のデリカテッセンの窓が破られ、

『豚どもは出ていけ』

『ユダヤ人の店。物を買うべからず』

 とペンキで落書きされていた。

 そうした光景はもはや日常茶飯事だ。

 何代か前のご先祖がキリスト教に改宗済みというイサーク先生は、無事帰る事が出来ただろうか。

 歴史あるホテルの前で、黒塗りの車がすっとシンノのそばに横づけした。


「善次郎坊ちゃま、お迎えに上がりました」


 白いひげの老人が顔を出す。

 シンノの子供のころからのじいやで、教育係兼運転手だ。


「ご苦労さん。君も乗って行かないか?」


 屈託のない笑顔を向ける東洋人の表情は美しいが、心の底で何を考えているのかわからない。

 エミールは断わり、挨拶をして再び歩き出した。

 路面電車の運行はとうに終わっているし、若い脚では下宿まで歩いても大した時間はかからない。


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