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第26話 歌の翼に君をのせて・2

 重いドアを開けカフェを出たエミールは、ポケットに手を突っ込んだままずんずん歩いた。

 もう7月も終わるという真夏の午後。ドイツでも北のプロイセン州ベルリンと言えど気温は上がる。

 早足でマルクト広場(ジャンダルメン・マルクトを横切るエミールの体は熱く、青ざめた顔には玉の汗が吹きだした。


 道行く若い女たちはみな薄着だ。

 夏物の洋服の、ひらめくスカートの裾から伸びるむき出しの足に、カールした髪の毛先がかかる首筋。

 薄手の生地のワンピースは、胸元のボタンがはちきれんばかりに窮屈そうだ。

 女たちのざわめき、お喋り、笑い声。皆が自分の性を挑発しているようで、エミールのざわついた心がさらに波立つ。

 久し振りに大学の門をくぐっても、気分は晴れなかった。

 広い敷地の中には、SSやゲシュタポの屈強な制服の男たちがここかしこに見られる。しばらく足を向けないうちに、学内の締め付けは急速に厳しくなっていた。

 だがその物々しさも、エミールの虚ろな目には全く入らなかった。



 音楽学部の練習室には、見慣れたオペラメンバーの姿はなかった。

 いつも床や椅子に掛け、楽譜をめくっていたシンノもキムも、楽団の他のメンバーもいない。

 いつも楽器の置かれた場所は綺麗に片づけられ、無造作に重ねられた楽譜の束や譜面台、メトロノームも消え去っていた。

 学内のどこからか、学生が練習している楽器の音は聞こえる。

 だがピアノに合わせてオペラの練習している歌声や、連れ立っておしゃべりしながらいつの間にか台詞が歌になってアンサンブルを始めてしまう、演奏家の卵たちがいない。

 遠くから合唱が聞こえる。ヒトラーとナチスが好むという、ワグナーの「ローエングリン」だ。

 恋と、若さと、失敗とほろ苦い笑いは、キャンバスから一掃されてしまったようだ。

 自分達が「ボエーム・プロジェクト」に夢中でのめり込んでいた間に、世間と『音楽の嗜好』は変ってしまっていたのだ。

 エミールはたまらず学部を走り出た。


 美術学科の校舎に入ると、ぷんとテレピン油と絵の具の匂いが漂った。

 オペラ「ボエーム」の上演準備中、常に漂っていたものだ。

 背景美術を描いたり、小道具に『汚し』を入れるミリヤナたち美術学生の、体や髪にしみ込んでいるのだ。

 音楽と美術と舞台の演技。それが一つになった『至高の空間』を、自分達は作ろうとしていたのに。



「イワン!ミリヤナ!いるか!?」


 片っ端から空き教室のドアを乱暴に開けるエミールに、教室を使っている画学生は


「いきなりなんだ」

「外部の者が邪魔をするな」


 と罵った。

 一番奥の、壊れかけた画材倉庫のような部屋を開けると、イワンとミリヤナがそこにいた。それぞれの画の仕上げをしている。


「どうしたエミール」

「珍しいわね。美術学科の学舎に来るなんて」


 振り向いた二人は、金髪を振り乱し荒んだ目をした青年を訝しく見つめた。


「どうしたの。追われているの……?」


 イワンが周囲を警戒して囁いた。ミリヤナが静かにドアを閉める。

 校内の至る所にゲシュタポが入り込んでいるのだ。

 どこで聴かれているかわからない。


「いや……追おうか追うまいか迷っている」

「何を?」


 ミリヤナは注意深く筆とパレットナイフを隠した。

 明らかに正気ではないエミールの様子に、何を仕出かすか分からないものを感じたからだ。


「マリーだ」

「……別れたのか?君ら」


 躊躇いがちに聞くイワンの襟に、エミールはいきなりつかみかかった。


「知っていたんだろう、君達だって。知らないとは言わせないぞ !」

「何をだよ。落ちつけ」


 イワンの方がずっと力は強い。たちまち手首をつかまれ反対にねじ伏せられた。


「マリーの……絵のヌードモデルをやってて……おまけに体も売っていたってこと…」


 ミリヤナとイワンは顔を見合わせた。


「君達のお仲間連中が、表のカフェで話していたんだ。画学生の間じゃ周知の事実だって……」


 黙ってないで何か言えよ。

 エミールは二人に詰め寄った。

 言葉の勢いとは逆に、目から光が消えている。


「知っていたよ」


 イワンがエミールの手を離した。


「やっぱり……」


 離された両腕をだらりと下げて、エミールはふらふらと後ずさりした。


「薄々そんな気はしたんだ。このところずっとあの子の言動は不安定だった」


 軽い嗤いが片方の口元に浮かぶ。


「貧乏が嫌になったんだな。こんな稼ぎのないろくでなしの俺との」

「あの子が自発的にやっているとでも思うの?」


 ミリヤナがぴしゃりと諫めた。


「今まで黙っていたし、出来たら一生内緒にしておきたかったけど……マリーは少女の頃からずっと体を売って生きて来たのよ。でもあんたに会って、愛されて一緒に住むようになって、そんな暮らしからは足を洗ってた」

「オペラプロジェクトのために、と笑顔で言われたよ。エミールには生活の心配しないで音楽だけやってほしいからって。自分にはアンナみたいな店で歌う技量はなくて、持ってるものは身体だけだから、それで『仕事』を再開するんだって…」

「俺に?」

「そうだよ。お前に会って辞めて、お前のためにまた始めたんだ」


 そんなのはうそだ。彼女は根っからの売春婦なんだ。男に求められるのが楽しいんだ。そういう女なんだろう? そうだって言ってくれ !


 絶叫したエミールは、涙をたたえた目でイワンとミリヤナを睨みつけると、ふらふらと教室を出て行った。


 巡回中の警官が何事かと走ってきたが、錯乱した様子のエミールと、立ち尽くすイワンとミリヤナの姿を見ると、口笛を吹いて冷やかしただけだった。


「若いっていうのは特権だね。どんどんやりたまえ」


「エミール」


 ミリヤナが鋭く呼びかけた。


「オペラは続けるわよ。それが私たちの『生』だから」


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