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第2話 ヒトラー内閣成立前夜・1

「なんて寒いんだ。この世の終わりのように絵筆がのらない。気晴らしにファラオを紅海に沈めてやるか!」


 薄暗い地下のビヤホールの中、背の高い青年がわめいていた。否、歌っていた。

 照明があらかた落ちた暗い店内はテーブルや椅子がぞんざいに端に寄せられ、広めの空間が出来ている。

 その周囲を座り込んだ数人の男や女が取り巻き、真ん中で歌う二人の若者を注視している。

 視線の真ん中で、イーゼルに掛けたキャンパスを前にした、青い目に黒ひげの青年が、赤い色をぶちまけた。

 ペンキ職人のような上下つなぎの作業着は絵具だらけでごわつき、絵筆を握った荒れた汚れた手は貧しさを語っていた。

 鬱憤を画布にぶつけているようだが、タイガに住む木こりのようなその風貌は夜のベルリン歓楽街には似合わない。


「おいおい、やり過ぎるなよイワン。後でみんなで掃除しなくちゃならないんだぞ」


 朱いしぶきが周りに散らないよう、周りで見ている眼鏡の中年男性がしーっと手で指示をする。押さえて押さえて…

 肩をすくめた若い大男はそのまま歌い演じ続ける。


「そう。続けて」


 眼鏡の中年男はどうやらその集団のディレクターらしい。

 その言葉と気配を感じ取りながら、アジア人の男性が壁際で伴奏ピアノを弾き続けていた。


「ロドルフォ、君は?」

「パリの陰鬱な空の下、何千本もの煙を吐き出す煙突を見ているんだ。全く気が滅入っちまうよ。深淵なる詩想も偉大なる思想も降りて来やしない。おまけにこのボロストーブは王様のようにふんぞり返って仕事をしやしない」


 ロドルフォと呼びかけられた青年は、明るく高い声で歌い返した。薄茶の髪に灰色の目で、一目で『アーリア人』とわかる風貌をしている。


「こいつは満足な『おまんま』も与えられていないからな」


 二人の青年の歌のやり取りは、店の隅から流れ続ける軽快な伴奏ピアノに乗り、明るく弾んでいる。


「まるであの冷たいムゼッタの体のようだ。暖炉くんへの食料…そうだ、椅子だ。この椅子に犠牲になってもらおう」

「早まるな、マルチェッロ」


 マルチェッロと呼ばれた青年は、軽々と椅子を振り上げた。屈強で幅の広い体はドイツ系には見えないが、目に人のよさそうな笑みをたたえている。


「なんだいへっぼこ詩人殿」

「この僕の深淵なる戯曲世界の原稿を犠牲にして、革命の炎を燃やしてもらおう。さあマルチェッロ、ありがたく思索の恩恵に与りたまえ


……紙は、紙はどこにある?僕の戯曲に扮する紙は?」


 青年は歌い演じながら、脇に座りこむ仲間たちにささやきかけた。

 その間も背後に流れるピアノの伴奏はやまない。


「シンノ、止めて止めて」


 もじゃもじゃ髪の中年男が椅子から立ち上がった。

 うっとりとピアノを弾き続けていた東洋人の青年が残念そうに指を止めると、周囲は急に静かになった。


「すまんねエミール。紙は高いから暖炉にくべる用には準備できなかったんだ。なにしろ僕らの予算は、劇中のボヘミアンたち並みに無い」

「楽譜を破っちゃ、いけませんよね」

「その言葉、冗談でも偉大なるプッチーニの音楽、並びにドイツの盟友イタリアのリコルディ社に対する冒涜になるぞ。紙はますます統制販売がきつくなってくるから、大事に使わないと」

「じゃ、『振り』だけですか」

「そうだ。ああせっかく止めたんだから、この冒頭部分の駄目だしをするぞ」


 小柄なもじゃもじゃ髪の眼鏡男の周りに、画家のマルチェッロ、詩人のロドルフォ、そして稽古ピアノを弾く日本人のシンノ・ゼンジロウが集まった。


「ショナールとコッリーネもこっち来て、一緒に聞いてくれ」

「はい。ヅィンマン先生」


 1932年の初冬、ベルリン・アレクサンダー広場のビヤホール『鉛の兵隊』はとうに店を閉めている時間だ。

 だが5つあるブースのひとつ、地下の一番狭いコーナーは若者たちが集まり、ピアノを奏でて歌い演じている。

 彼らはベルリンの芸術学校の生徒たちだった。

 若い眼鏡の助教授イサーク・ヅィンマンの元に集い、オペラの上演に向け、仲間の独りが働いているビヤホールを閉店後に借り、ジョッキや皿を洗い店内中の掃除する事を条件に、稽古場として使わせてもらっているの。

 先ほどから練習しているのは、イタリアの作曲家プッチーニの青春悲恋オペラ「ラ・ボエーム」だ。

 イタリア語の語感とぴったり合った泣かせるメロディーが『プッチーニ節』と言われる、感情的な音楽劇だが、生徒たちが歌い演じるのはドイツ語。しかも合唱や群衆シーンをカットした抜粋上演である。


「先生、先に進めたくてもこれ以上進まないんじゃないですか?」


 ロドルフォ役の痩せたテノールが口を尖らせた。ドイツとの国境の町、オーストリアのクーフシュタインからやって来た仕立て屋の息子、エミール・シュナイダーだ。


「そうですよ。ショナールとコッリーネが合流したとしても、結局1幕1場と4幕冒頭しか出来ないですよね」


 ロドルフォと肩を組んで文句を言う大男は、主人公の親友の画家マルチェッロ役、イヴァン・クラスノーコフ。ウクライナ出身の美大生だ。

 音楽を専門に学んではいないが、美声と勘の良さ、そして本物の画家の卵だという点で抜擢された。


「何度返して練習しても、女性との絡みが出来ないのはつらいですね」

「仕方ないじゃないか。ミミ役もムゼッタ役も、ヒロイン2名はまだスカウトすら成功していないんだ」

「音大の子達はみんな僕たちなんか相手にしませんし」


 劇中ショナールという演説家を演じる、ケーニヒスブルクから来たバリトンのゲアハルト、哲学者コッリーネを歌う朝鮮出身のキムも口をそろえる。

 小柄な助教授よりも背が高く逞しい、いかにも低音楽器向けの体をしている若者たちは、普通に話すだけで迫力がある。

 それより君たち、と指導者のイサーク助教授が口をはさんだ。


「こうしてしゃべるぶんには、まあまあ差しさわりなく通るが、早口の台詞を歌う時はドイツ語が聞こえてこない。何を言っているのか分からないので、聞いているとストレスを感じるよ」


 青年たちは顔を見合わせた。


「ゲアハルトは合格。エミールはちょっと口調が野暮ったい。イヴァンとキム…君たちが問題だ。パリに身を寄せるその日暮らしのボヘミアン。金もない代わりに有り余ると思い込んでいる時間と自由。根無し草の若者らしい軽やかさがない。そう思わないか、ミリヤナ」


 話を急に振られ、イサーク助教授のそばに座りこんでスケッチを書いている女学生は肩をすくめた。


「セルビア人の私には、その、彼ら登場人物が生きたパリとやらの『軽やかさ』が分かりません。先生」


 まさか、ここから始めないといけないとは……

 イサークは頭を抱えて見せた。


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