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第1話 ベルリン1961

gluck, das mir verblieb, ruck zu mir, mein treus lieb


「ご機嫌ね、エミリア」

「そう?」


隣りを歩く同級生の声に、エミリア・ブーランジェは鼻歌を止めた。


「何の歌?」


赤毛にそばかすが散った友人イングリットは、大学生の彼氏の影響かアイク・アンドティナターナーのビートの効いた音楽に夢中だ。

ずいぶん古風な歌じゃない、とエミリアの鼻歌を耳に留めたらしい。


「題名は知らないのよ。昔母親代わりのおばさんが歌ってくれてた曲なの」

「おばさんかあ。でもエミリアってフランス人なんでしょ」

「お父さんはドイツ人よ。戦争で行方不明になったって、おばさんから聞いた」

「ブーランジェってどういう意味?」


そばかすだらけの顔を向ける友人は小鼻の汗を拭いた。金髪のエミリアがフランス国境のアルザス・ロレーヌ地方からおばと共に引っ越してきたのはまだ物心つかない赤ん坊の頃。

フランスの血は意識したことはないが、友だちの他のドイツ人少女より小柄で、雰囲気もどことなく柔かく小づくりだ。

ブーランジェは『お菓子屋さん』。きっと父親は代々のパンやかお菓子屋だったに違いないわ。

そう答える声も透き通っている。


「そうお菓子。そういえばユンゲおばさんがさくらんぼのトルテを焼いてくれるって言ってたわ。今度の日曜、来ない?」


いいわよ。嬉しい。

エミリアのおばさんってケーキ作るの上手よね。

女学生たちは笑いさざめく。

夏の平和な夕方の光景だ。


1961年8月15日。ベルリン。学校帰りの少女たちは街の路地を歩いていた。

『東』と『西』を貫く路地の奥には人が集まっている。

数日前から『東』の作業員が柵を設けているのだ。

作業員が何人も作業中に境を越え『西』に渡って来るので、とうとう東の『警察隊』が監視に立つようになったという。

だが好きなお菓子や気になる男の子の話に興じるエミリアと友人たちにとって、それは『上の人たち』やこの町を占領している英語を話す『外国の軍隊』の管轄領域で、自分達にはあまり関係ない事だった。

それよりもチェリーとチョコのケーキにはたっぷりの生クリームが必要だとか、アプフェル・シュトルーデルをハトロン紙のような薄いパイ生地で巻くのは難しいとか、そういう事が重要なのだ。

幼い頃は本当に食べ物も呑むものも乏しかったが、高校生になった今では贅沢を言わなければひもじい思いはしなくて済む。

だが、東は食べ物も何もかもが少ないらしく、人たちは西に働きにくるし、そのまま東の暮らしを捨てて住み続ける人も多い。

それを防ぐための『柵』らしい。

エミリアたちは自分らが動物園の動物になった気がした。


ある細い路地の奥でお祖母さんが泣いていた。

その周りの人たちが彼女を支え、しきりと慰めている。

近寄ると、柵の向こうで幼い女の子が、国境警備の警官たちに手を引かれ、抱えあげられて連れ去られるところだ。

子供は老女の孫で、西に住むお婆ちゃんに会いたくてとことこやってきたが、もうすこしで「柵」をくぐるというところで警官に見つかってしまったらしい。


色んな人が、行き来が出来ずに困っている。

戦争が終わった年に生まれた自分はよくわからないが、エミリアは暗い気持ちになった。

自分はフランス人の母とドイツ人の父との間に生まれた。だが父は戦争で行方が分からず、死んだ母の親友ユンゲおばさんの養女となってベルリンに居る。

自分みたいな子は多い。でも「自分」はいったい誰なんだろう。地上で自分に連なる人はいないのか。

別れ別れになったとして、あの老女のように泣いてくれる肉親は居るのだろうか。


友人と別れておばさんの待つ家に帰る途中、エミリアはベルナウアー通りとルピナー通りの交差点に差し掛かった。

『東』と『西』をまたぐ細いルピナー通りと交わるベルナウアー通りには、通り沿いのアパート群ギリギリに、戦場の陣地のように鉄条網が張ってある。

何台もの警察車両が止まり、またカメラマンが待ち構えている。

誰か偉いお役人でも視察に来るのだろうか。その割には鉄条網の『向こう』はのどかで、こちらをちらちら見ながら立話しをしている人たちが何組もいる。

鉄のヘルメットをかぶり銃を肩にかけた警官がそこら辺をうろうろと歩き、網を触ってはチェックしている。

さりげなく切断されていないか、見ているのだろう。

エミリアはなぜか彼が気になり、やや離れて眺めていた。

ヘルメットで顔が隠れているが、まだとても若いようだ。親友イングリットの大学生の彼氏と同じくらいだろう。

他の地点に立つ警官と違い、彼には殺気がなかった。

しきりとタバコを吸い、アパートの壁にもたれかかったり、うろうろ歩いたりしている。

たまに部下に指示を出して、その場から遠ざけたり、とかく一人で居たいようだ。


「変な男。やる気がなさそうだわ」


エミリアが飽きて帰ろうとした時『東の男』が動いた。

体を翻して走り出し、鉄条網をジャンプして飛び越えたのだ。

重い銃を投げ捨て、他の「東」の人たちが阻止する間もなく、自分を撃つ隙も与えず、軽々とジャンプして柵を越えた。

息をのんで見つめるエミリアの前に走って来ると、彼はドアを開けた「西」の車両に飛び込んだ。

「東」の警備員たちが騒ぎ出す頃には、彼は車に乗ったまま走り去っていった。


全ては数秒の出来事だった。

エミリアと「彼」は一瞬だけ目が合った。

怯える子ウサギのような大きな目で、彼は「西の少女」の前に跳んできた。


次の日の新聞はこの出来事をトップで伝えた。

彼の名はコンラート・シューマン、19歳の元羊飼いの青年だ。


閉じられつつある世界から跳んで逃げてきた青年は、エミリアの瞳にいつまでも残った。


次の日、学校への道を歩くエミーリアが通りにできた『柵』を見ると、相変わらず警察車両がたくさん並び、外国から来た記者やカメラマンも大勢カメラを構えて何かを待っていた。

もっと大勢の人が、柵を飛び越えてこちらに来るのを待っているように。

だが『向こう』の人影はもっともっと増えていた。銃を構えた警備兵は昨日までよりもずっと増えていたし、毅然とした姿勢でこちらに向ける視線も鋭い。

加えて柵の内側『自分達の側の人々』にはもっと目を光らせている。

立ち止まって柵の向こうを眺めている人がいれば、すぐに銃の台尻でこずいて追い散らし、近寄る者がいれば連行する。

そのたびに『こちら側』のカメラはカシャカシャとシャッターを切り、記者はメモを取っていく。


そうしているうちに、鉄条網の柵はブロックとコンクリートの『壁』になっていき、柵ギリギリに建つアパートの窓から飛び降りて逃げてくる人、窓に足をかけ跳ぶ寸前につかまる人が何人も出た。

そのたびに近くの『こちら側の』住民や駆けつけた市民は窓の下にマットやクッションを構え、受け止めようとした。

部屋のドアを打ち破って突入した警官隊に窓枠から引きずり降ろされ、連行されていく『東』の人々の悲鳴や泣き声は毎日のように空に響いた。


ベルリンの空は、青かった。


まだ『壁』になっていない柵を越えようとして撃ち殺される人達はそれからも増え続けた。

鉄条網と車止め、幅広い無人地帯を備えた堅牢な高い『壁』が完成しても、越えて外の世界に行こうとする人は途切れなかった。

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