雲隠れ
障子が開いて若い新造が花魁にこそりと耳打ちした刹那、客は箸を膳に戻した。
「お前は人気者だねぇ。いいよいいよ。引く手数多の花魁を、一時でも独り占めしようとしたおいらが身の程知らずだったのさ」
わっちの間夫はぬしさんでありんすと方々へ嘯けば、客の重なるのも道理である。
己をせかす若い娘をそっと手で制すと、花魁は最前から膳のものに手をつけないでいた客に向き直って酌をした。
「別れの酌かい。雲隠れにし夜半の月かな、お前さん、もう戻ってこねぇつもりだな」
新造は心の臓を飛び上がらせたが、当の花魁は涼しい顔である。
「旦那、猪名の笹原でござんすよ」
盃をあおる客に流し目をくれて謎かけをすると、客はたちまち酒にむせて杯を置いた。
「さすがお職の花魁だねぇ。洒落てるや」
客はすっかり上機嫌、よいよいと手までふって花魁を送り出すものだから、新造は伴天連の妖術でも見たように目をまるくした。廊下に衣擦れの音が遠ざかっていっても、まだ小首を傾げたままでいる新造に、客は肩をすくめた。
「だからな、おいらが『雲隠れにし夜半の月かな』と言っただろ。こりゃ小倉百人一首の紫式部だよ。相手が行っちまったのを嘆いたわけだ。そしたら花魁は『猪名の笹原』と答えた。こっちはあんたのことを忘れやしませんよ、ってぇ歌だ。これも小倉さ」
得意げに鼻を膨らませる客に、新造は徳利を手にすると目を輝かせ、身を乗り出した。
「この程度は気の利いた娘ならできる返しだ。おいらがしびれたのは、笹原の歌を詠んだのが式部の娘だってことだよ。ありゃあ大した女だ。お前もなかなかの器量よしだから花魁を見習って……」
ここでぷつりと客は言葉を切った。新造の瞳は大きく見開かれ、尊敬の色で今にもこぼれ落ちんばかりに輝いていた。
「……まあ、お前はそのまんまでいいや」
(2006.10.17)