歓喜と悲劇
おれは『再定義』によって物語を“敵軍が存在しなかった”という設定に書き換えたらしい。そうとしか思えない。
一方、マンシュタインの操るプテラノスは満身創痍だった。翼は裂け、血が滴る。おれとマンシュタインも同様だ。服は焦げ、体中が煙と汗でべとついている。ぎりぎりの状態で滑空し、避難民の集う丘に降り立った。
避難場所には千人近い住民がひしめいていた。その中には顔を上げる力もなく倒れ伏す者、うつろな目で静かに泣く者もいる。死者が出たのは明らかだった。小高い丘の上から見える遺体の数が、おれの心を虐げる。
この惨状は、不満以外の何ものでもない。曹操への怒りはあれど、本当はおれ自身に怒っていた。住民保護を第一としておきながら、これほどまでの被害を出してしまうとは。部下は責められない。すべての責任は総統が負わねばならない。
しかしそんなおれをよそに、周囲は歓喜に包まれている。生き残った住民や兵士は晴れやかな顔で抱き合い、将軍たちは握手を交わす。マンシュタインとハイドリヒは無邪気に肩を叩き合っていた。
その輪にくわわれないおれの目は、自然とメイドの姉妹、カレハとミツヴァに向いた。彼女らは負傷者の手当てに奔走していた。カレハは傷口に包帯を巻き、ミツヴァは血のついた手を拭う間もなく次の負傷者に駆け寄る。
生死も不明な者が草地の上に横たわり、まるでそこだけ違う世界だった。おれは彼女らを労おうとしたが、それを阻む声がした。
「D地区の村民を保護いたしました、ハイドリヒ様!」
黒髪で額の広い男がハイドリヒに近寄り、勢いよく敬礼した。おれはナチスに詳しくないので、そいつの名前がわからない。だが、避難場所に逃げ損なった村民を守り抜いたことは賞賛に値する。おれはその男に声をかけた。
「お前、名前は?」
「はっ、総統。クルト・ダリューゲであります」
「おれの命令をよく守った。あとで褒美をとらせる。そこのメイドたちもだ」
ダリューゲの手を握ったあと、メイドの姉妹に歩み寄る。他にも看護にあたった者はいるのだろうが、ひとまず彼女たちが代表だ。
「カレハ、ミツヴァ。お前たちはもう休め。あとは兵士にやらせる」
「ですが、閣下」
「もうよい、十分だ。かわりに何か飲むものをくれ」
おれは二人の頭を撫で、疲労に鞭打った体を抱き起こした。「我が軍は勝利した。お前たちもだ」
そのひと言に、周囲が沸いた。拍手喝采だ。戦いを勝利に導き、領民に労りを見せる。自然にとった行動だが、これでヒトラーの株が上がったこと間違いなしだ。強くて慈悲深い者が人に愛されないわけがない。
「総統、ご立派でした。ダリューゲも喜んでおります」
握手を求めにきたハイドリヒに聞くと、ダリューゲは彼の親衛隊における部下だったとのこと。そんな男を持ち上げてしまったが、ハイドリヒは嫉妬した気配もない。
むしろ、住民を無血で守り抜くことはできなかったためか、笑顔はぎこちなく、ひどくバツが悪そうだ。
意外に責任感があるじゃないかと思ったときだ——
「ところで総統。先ほど敵軍を蹴散らした能力ですが、いつの間に覚醒なされたのですか?」
「覚醒?」とおれは鼻をかいた。質問の意味はわかるが、どう説明したらよいのか答えが見つからない。
「おれが覚醒したらおかしいか?」と逆に聞き返す。ハイドリヒは「滅相もありませんが」という。「わたしの見たところ、総統は『真理』に目覚めたのではないかと。魔法の最高位である『超越界』のさらに上をいく能力——」
将軍たちは戦勝に浮かれて意識を向けないが、さすが目ざといハイドリヒ。確かに『ラグナロク』の世界には、隠された力、『真理』の存在が示唆されていた。おれの能力はそこに分類されるのか。ハイドリヒの話に整合性がとれた。
「知らぬ間に覚醒したようだ。おれもそれ以上のことはわからない」
「そうですか。とはいえ曹操は、数十万人規模の軍勢を背後に控えていたでしょう。一度の戦闘で蹴散らしたのは奇跡に近い。反転攻勢の機運も否応なく高まります」
興奮した様子で語るハイドリヒに、曖昧に笑いかけたときだ。
「閣下、お待たせしました!」
メイドの妹であるミツヴァが水筒のようなものを持ってきて、カップに黒い液体を注いだ。無論、コーラではない。
「ありがとう」と礼をいい、渡されたカップに口をつけた。緊張した体がほどけていく。当然だが、おれの疲労は限界に近い。
「どういたしまして」とお辞儀をし、ミツヴァはお代わりを注ぐ。その後ろには姉であるカレハがいた。甲斐甲斐しい様子のミツヴァを慈母のような顔で見守っている。
警視総監になってわかったが、人はトップに上り詰めると孤独になる。その孤独を癒してくれた気がした瞬間、信じがたいことが起こった。
「あれ?」と声がした。ミツヴァが自分の両手を見て、その表情をみるみる変えた。
最初は気づかなかった。しかし彼女の声に悲愴感が混じってくると、目を見張る。ミツヴァの両手が“消えて”いた。
「どうしよう」彼女はおれを見上げ、震える声でいった。
「閣下……わたし、“無”になるのでしょうか?」
「冗談だろ——」慌てて腰を屈め、ミツヴァの顔を掴んだ。そのこぢんまりとした輪郭も、細かい粒子のようなものへと変化する。
時間にすれば、たった十秒にも満たなかったと思う。おれの目の前でミツヴァが消えた。辺りには、彼女の着ていた服だけが残されていた。