蒼穹の塵
曹操の出方からして、やつは敵将であるおれを狙いにくるだろうと思った。マンシュタインは護衛を固めるよう指示を出したが、その数もわずか。火焔竜に突破されたらひとたまりもない。そう思った。
しかし、おれの思惑は外れた。マンシュタインが操縦するプテラノスを後退させ、曹操の突撃に備えた瞬間、青い波紋が空域全体に広がった。曹操が長い矛を振り上げ、轟音のような雄叫びをあげている。怪しげな力、例えば魔法のような力を使ったのは一目瞭然だ。
効果はすぐに現れた。自軍の動きがぴたりと止まったのだ。まるで金縛りにあった銅像のように動けない。おれが乗るプテラノスも激しい痙攣を引き起こし、首を絞められたかのように絶叫した。まるで恐怖に駆られたかのような声。同じ光景があちこちでくり広げられる。
幸い人間は無事のようだったが、おそらく抗魔法装備を身につけているからだろう。しかしプテラノスはそうではない。中には弱々しく鳴き、力を失って地上に落下していくものまでいる。ひとつ、またひとつと自軍が損耗していく。避けられない死が頭をよぎった。真綿で首を絞められ、死んでいく自分の姿が。
マンシュタインのほうを向くと、やつはプテラノスの胴体にあぶみをぶつけ、「持ちこたえてくれ!」と焦りを滲ませていた。プテラノスの悲鳴はうるさいが、逆にいえばまだ反撃能力は維持している。この辺はもう、幻獣使いの手腕なのだろう。とはいえおれの目に、それは時間稼ぎにしか見えなかった。
使うしかない。『再定義』の力を。
おれはマンシュタインに「もう少し接近しろ、できるか?」と命じる。やつは驚いたようにこう返した。「接近したら葬られるだけですよ?」
「構わん!」と怒鳴り声をあげ、おれはプテラノスの腹を蹴った。勿論、怒ってなどいないが、マンシュタインはそう受けとらなかったようだ。「了解です、命を懸けましょう」と声を絞り出し、恐怖に怯えるプテラノスに鞭を入れる。曹操との距離はおのずと縮まっていく。
およそ二百メートル近くまで接近しただろうか。ここまでくれば効果は発動する。そう感じたおれは、腹の底から声を張り上げた。
「曹操軍の侵攻という現実を『再定義』する……!」
前回は瞬時に効果が現れ、力を受けた者は豹変した。今回はどのくらいだろうと時間を推し量り、曹操の様子を眺めていると——
「フハハ、全然効かぬぞ!」
拍子抜けしたことに、何も変わらない。相手は健在だ。この程度じゃ物語は書き換わらないということか。
「貴様の切り札はその程度か!? ハァ!」
そこからの猛攻は凄まじかった。火焔竜が巨大な火炎を吹き、その炎はおれの制帽を灼く。マンシュタインに到っては「ああ見えて曹操はまだ秘技を隠しております。総統のお力を疑うわけではありませんが、一旦退きましょう」と進言してくる。
普通に考えて、その助言は妥当なのだろう。敵の攻撃範囲に身をおいて、こちらは弱い火力しかない。まさになぶり殺しだ。命がいくつあっても足りない、というのがやつの本音。
しかし、そんな心構えでは最強にはなれない。
「もっと近づけ! 百メートル、いや五十メートルだ」と命令する。「あの炎を避けながら、さらなる接近を。お前の技量を見せてみろ」
自分でも無茶だとわかっている。よほどの自信と、おれへの信頼がなくては無理だということを。
だがここで撤退したら先はない。ヒトラーの権威は完全に失墜だ。そもそも、曹操軍が逃がしてくれるという保証さえない。
「わかりました、命を捨てましょう」というマンシュタイン。ヒトラーと幕僚との関係性はわからないが、少なくともこいつは領主に命を預けるやつだった。その男気におれは深く感謝した。
ふと地上を見れば、避難民に被害が出ている。見知ったメイド姉妹が、彼らを介抱している。住民保護の限界が目前に迫っているようだ。妹のほうは泣いているように見えた。死人が出ているとしたら、恐怖や絶望感はレスキュー隊の比ではない。
「勝利に終わらせるぞ、この戦いを!」
そこからのマンシュタインは見事というほかない。サラマンダーが炎を吐くタイミングを完全に見切って、猿が木の上に登るような滑らかさで曹操に近づく。五十メートル、いや三十メートルまで距離を詰めた。曹操の赤ら顔がもう目の前に迫っていた。
「住民を顧みないお前が正義なわけがねえ! 覇道を歩んだ罰を受けろ、曹操!」
「正義とは語るものではない。貴様を裁くのは、歴史の必然だ!」
「バカめ、裁かれるのはお前のほうだ!」おれは唾を吐き捨て、鋸のようなだみ声を放った。「曹操軍の侵攻という現実を『再定義』する……!」
互いの表情まで見える距離で罵り合ったあと、おれは手をかざした。先ほど不発に終わったことで緊張感、いや、深甚なる恐怖さえ迸っていた。能力の効果が曹操に及び、何らかの変化が起きる。そんな一縷の望みをかけ、「頼む!」と叫ぶ——
ふっと消えたよ。跡形もなく。
曹操が乗る火焔竜ばかりか、空を埋め尽くしていたやつの軍勢が忽然と消えた。おそらくは、後方に控える大軍勢さえも。
「赤軍は……?」と魂を抜かれたような声がする。マンシュタインだ。やつはこの現実を俄かに受け入れられないらしい。
勿論、おれもそうだ。効果が劇的すぎて、現実感がまるでない。かろうじて残った冷たい風と埃が、おれの両頬を撫でていく。
勝利か。心からそう思えるまで、無人の蒼天を眺め続けた。