悪との対峙
最後の食事になるかもしれない、そんな不吉な考えが頭をよぎった。ハイドリヒが伝えた情報は、それほど危機的な内容だった。
「敵の斥候を捕らえましたが、赤軍の精鋭部隊が総攻撃を準備していると。我々の息の根をとめるつもりです」
おれはハイドリヒと共にシェフの用意した料理を食べている。贅を尽くしたフランス料理のランチだ。しかし、味は感じない。空腹を満たすためだけに、分厚いステーキを口に押し込む。
ちなみにハイドリヒは、ヒトラー同様、残忍非道な悪党だ。あらゆる謀略や虐殺に関わり、最期はテロリストに暗殺された。
そんな鬼畜野郎が家臣とは。この状況の異様さに、眩暈すら覚える。
「こちらの戦力と比べてどうだ? 街を出て、軍勢を迎え撃つべきだと思うが?」
平静を装っておれは尋ねる。命の危険には慣れているが、租界が戦火にさらされるのは避けたい。住民の命が失われれば、統治どころじゃなくなる。
「一理ありますが、戦力差は圧倒的かと」
ハイドリヒは人参をカットしながら、話を続ける。「赤軍は、黒軍の領地を破壊し尽くすつもりです。でなければ、総攻撃など仕掛けません。住民を残せば、彼らがゲリラとなるのを恐れているのでしょう」
「正義を掲げているはずの赤軍が、住民を虐殺するのか? お前のような人間の専売特許だろう」
「ご冗談を。わたしは総統の命令がなければ虐殺などしませんよ」
ハイドリヒは薄く微笑みながら答えた。「ここにいる仲間たちは、皆あなたの一部です」
「む、そうか」と応えておれは声を詰まらせた。ハイドリヒの悪辣さは、ヒトラー自身の悪を反映している。それを忘れていた自分に気づかされる。
「ところで総統、いくつか戦略を提供できますが」食後のコーヒーを口にしながら、ハイドリヒが獣のように目を光らせた。
「焦土作戦をとってはいかがでしょう?」
「焦土作戦?」と問い返すが、嫌な感じがした。そして、そのとおりになった。
「住民を盾として足止めを図り、租界のインフラを徹底的に破壊するのです。赤軍は補給路を断たれ、撤退せざるをえなくなるでしょう」
そこまでいうと、爽やかな笑顔をハイドリヒは見せた。おれはその態度に、こいつの狂気を感じとる。
合理的だが、非情すぎるのだ。おれは首を振った。ハイドリヒの提案に、冷たい怒りが湧き上がる。そして薄ら寒い恐怖感も。
「やり方が悪辣過ぎだ。そんなことをすれば、住民たちの信頼を完全に失う。それに、赤軍も住民の命など歯牙にもかけないのだろう? 住民を保護することで、おれたちへの支持を集めるのが得策だ」
「住民の支持……ですか?」とハイドリヒは首を傾げた。議論を拒む気はないらしい。
「しかし敵軍は正攻法で倒せませんよ」
「正攻法をとることはいってない。今後の戦争を有利に運ぶためだ」
「ですが、いまの我が軍にそれができるかどうか……」
飲みかけのコーヒーを流し込み、ハイドリヒは凍りついたように沈黙した。自分の進言が通らなかったことに納得がいかなかったのだろうか。戦略を熟知した者ほどリアリストで、理想的な要求を嫌う。
「案ずるな、ハイドリヒ。おれが最前線に出る。味方を率いる閣下は腰抜けかね?」
「えっ、総統が戦場に出るのですか!?」
「総統命令だ」そう決然といい放った。安全圏に閉じこもり、家臣をひき肉にする趣味はないからだ。
「住民保護を徹底し、戦況を打開する。それが不可能なら、死ぬまでのこと」おれは苦くて黒い液体を飲みながら告げる。「だが、そうはならない。なぜかわかるか?」
「わかりません」
「だろうな」と返事を受けた。こちらの隠された力量をハイドリヒは知る由もない。だがここで、気がかりがひとつ生じた。
「仮定の話だが、もしお前なら、戦死と降伏どっちを選ぶ?」と尋ねるおれ。ハイドリヒは毅然と襟を正した。
「聞くまでもありません。総統と共に死にます。降伏しても殺されるでしょうし」
「ふむ、立派な心がけだ」
おれはこれ見よがしに鼻息をつくが、ハイドリヒの瞳は微動だにしない。こいつはヒトラーの最側近と思われるが、いまひとつ忠誠心が足りないように見える。
これは経験則だが、犯罪者はぬけぬけと嘘をつく。だからおれは、ハイドリヒの言い分を頭から信じなかった。
いかにヒトラーがカリスマでも、悪賢いやつは状況次第で裏切りを厭わない。そんな家臣を心酔させるには、授かった特殊能力を用いて、戦況を一変させること。それ以外に策はないと、腹を固めた。
「美味かったな。シェフを呼べ」
食器を下げにきたメイド姉妹に声をかけた。無論、礼をいうためだ。彼女らは「承知いたしました」といい、ワゴンを押して部屋を出る。
「総統、少しお変わりになりましたね」
白いナプキンで口を拭いながら、ハイドリヒが不穏なことをいい出した。「どこが変わった?」と聞くと、やつは「思いやりを感じました」という。
「そうか」と答え、口ひげを触った。この状況で「変わった」と思われるのは悪いサインだが、確かにおれはヒトラーじゃない。疑われない程度に正義を追求し、悪の軍勢を変えていく。それがこの世界に転生した意味だろう、と思ったときだ。
窓の外からけたたましい音が聞こえる。サイレンだ。空襲警報としか思えない。
「敵軍がきたようですね。準備に時間を割かなかったようです」
席を立ったハイドリヒは、軍服についたパン屑を払ったあと、「最後の食事にならないといいですね」とつぶやく。
窓から外を覗くと、住民が我先にと逃げ惑っていた。互いにぶつかり合い、「どけ!」とか「助けて!」といった罵声と悲鳴が交錯する。着物姿の子供が倒れているが、だれも手を差し伸べようとしない。きっとそれどころじゃないのだろう。
見上げると翼竜と思しき獣が空を飛んでいた。背中に軍人が乗っている。モンスターを兵器にするのは『ラグナロク』世界の常套手段だが、その数がべらぼうに多く、周囲を滑空しながら火炎まで吐いている。このままでは租界が火の海になるのは時間の問題だ。
よく見ると、宮殿から兵士が出てきた。その動きは統率のとれたものでなく、明らかな混乱が見てとれる。
おれは「将軍たちを呼べ」と急いでハイドリヒに命じるが、やつは「フフフ、どうせなら八つ裂きにしてやりましょう」と嬉しげにぬかしやがった。「赤軍には親衛隊を全滅させられましたからね。罰を与えなくては」
その物言いと興奮した顔に改めてやつの狂気を感じとったものの、最前線に立つと告げた手前、おれは先陣を切る。「街を守らねば」と小声を洩らしながら。