鬼平の決意
やるべきことが山積みで、晩餐は遅くなった。もう十時をまわっている。そんな時間にもかかわらず、オジマは命令に応じて姿を現した。相手は楽しくないだろうが、こちらには聞きたいことがある。
「本日は日本租界の食材を用いたスペシャリテになります。オジマ様が日本人でいらっしゃるため、シェフが腕を振るいました」
カレハは配膳しながらそう告げる。前菜は冷奴、スープは味噌汁、サラダはほうれん草のおひたし、メインディッシュはとんかつだ。晩餐というより、母親の作ったご飯だ。
おれにとっては珍しくも何ともないが、ヒトラーにとっては違うだろう。なので一応驚いておいた。肝心のオジマは満足げだった。キノコ入りの味噌汁を一口飲み、ほっと息をついている。
「ところでオジマ。お前はどういう経緯でおれの軍勢にくわわった?」
あえて無知を装い、彼女に尋ねた。「お忘れですか?」と聞かれたら、「最近記憶力が悪くてな」とごまかすつもりで。
「恩返しであります」と彼女は答えた。大げさに聞こえたが、そうでもなかった。
「天獄に送られて飢えに苦しんでいたとき、赤軍はわたしをスパイと見なして殺そうとしました。そんなとき黒軍の兵士に助けられ、温かい食事をいただいたのです。この場に集う理由としては十分かと」
カットされたとんかつをさらに細かく切り、オジマは淡々と語った。
「なるほどな」とおれはつぶやく。正義感に溢れる彼女がなぜ悪の軍勢にいるのか、その理由が少し見えてきた。主義主張ではなく、人と人との縁。それが彼女の信条らしい。
「で、ここは働き甲斐のある場所か?」と質問を重ねる。彼女はウスターソースを溢れんばかりにかけ、ご飯と共に口に放る。顔は大人びているが、もぐもぐ咀嚼する姿が愛らしい。まるでハムスターだ。
「勿論、やり甲斐しかありません」
そういい切ったオジマだが、食事に夢中だった。たんに腹が減っているのか。
「本当かね?」とさらに追及する。ヒトラー率いる黒軍は、文字どおり悪の吹き溜まりだ。凄惨な戦いや虐殺なども目にしたはずだろう。それらを経て、なぜこの場にとどまっていられる? そんな疑問がおれの中にわだかまっていた。
「うーん、難しいですね」オジマは少し表情を曇らせた。「戦争の本質に気づいてしまったんです。正義も悪も状況次第。いまは、赤軍を倒すことに意義を見出しております」
相手がヒトラーでも、オジマは物怖じせず、不敬にあたらない程度の自己主張をした。べつに黒軍に参加したからといって、悪に染まったわけでも、居心地の悪さを感じているわけでもないらしい。
だがおれは、こいつの燃えるような正義感を知っている。それはいつか、火を吹くかもしれない。おれ自身、これからどんな目に遭うかわからない。なにしろ自分が転生したのは、悪のラスボス、ヒトラーなのだから。
そのとき、部屋の扉がノックされた。カレハが入室し、後ろにハイドリヒが控えていた。
デザートがくるタイミングで、カレハはワゴンを押している。皿の上に載っているのはおはぎ。徹底した日本推しだ。
「まだ働いているのか?」と反射的にハイドリヒを労ってしまう。やつは敬礼もせず、少し焦った声でいった。
「じつは不測の事態がおきまして」
「不測?」
よく見ると、やつの顔色は悪い。貧血を起こした患者のように青ざめている。
「はい、ダリューゲのやつが村の納屋で首を吊っておりまして」
ダリューゲ。その名前は頭に刻まれている。D地区の村民を保護した功績で、親衛隊の長官候補に名を挙げた男だ。
「遺書も見つかりました」ハイドリヒは折り畳んだ紙を取り出し、読みあげた。
その内容は、ひどく簡潔だった。ダリューゲは、D地区の村民に死傷者が出ていることを隠蔽していたらしい。その罪を悔いて、総統に嘘をついた罰として、自死を選んだという。
「実際、どうなんだ?」とおれはハイドリヒに聞いた。無論、ダリューゲの告白の正否についてだ。
「三名の死傷者が出ていたようです。総統の厳命を守れなかった後ろめたさで、嘘をついたのでしょう。彼は親衛隊でわたしの部下でもありました。責任を感じます」
落胆とも悲哀ともとれる表情を見せ、首を左右に振るハイドリヒ。やつとダリューゲの関係は知らないが、心痛は察するに余りある。こいつが普通の男であるならば。
「オジマ、お前はどう思う?」と鋭い声で聞いた。急に質問を浴びせられ、彼女は目を見開いた。質問の意図は、伝わっただろう。元警察官として、ハイドリヒの説明をどう感じたか、だ。
「他殺の可能性は排除できないかと」オジマは魔法でも唱えるような口調で述べ、白いナプキンで口を拭う。
「おれも同感だ」とハイドリヒの顔を睨んだ。まだ自殺と決めつけるのは早い。通常ならそう受けとるだろう。だがおれの腹は違った。「殺ったのはお前じゃないか?」という疑いを込めている。
「他殺の可能性については、夜が明けたら徹底的に捜査いたします」
「よし、そうしてくれ。今日はもう休め」
おれはあえて無表情を装い、ハイドリヒを部屋から下がらせた。やつはこれでもかと背筋を伸ばし、長身を揺らせて扉のほうに向かう。先ほどまでの心痛はどこかへ吹き飛んでしまったかのようだ。そういう細かい違いに、警察官は目ざとい。
だが、ここで追及しても証拠がない。
重い扉を閉じ、姿を消すハイドリヒ。その広い背中は、おれの心を見透かしているように見えた。
それから十五分後、カレハに目配せし、最後の客人であるオジマを退室させた。扉が閉まり、室内に静寂が戻る。カレハがそっと机の上を片づけ始めたが、何もいわなかった。
窓の外には月が高く昇り、暗い影を広げている。ダリューゲの名前が頭をよぎった。そしてオジマの言葉も。
「他殺の可能性は排除できないかと」
短い言葉だったが、その裏に潜む真実を想像するだけで、頭の後ろが痛くなる。
おれは机に腰を下ろし、疲れた肩を揉む。カレハが心配そうに一瞥したが、彼女はまた何もいわなかった。天獄にきて以来、孤独がつきまとう。人生で経験したことがないほどの孤独が。
やがてカレハが小声で「お休みなさいませ」と告げ、部屋を出ていった。おれはひとり窓辺に立ち、街の明かりを見下ろした。
戦火を免れた租界の街並みが広がっている。だが、その明かりの下には、無数の「消えたミツヴァ」のような存在がいることを知っている。彼らの人生を救うために、ヒトラーという悪名高き存在をどう利用すべきか。
——利用する、徹底的に。
そして“最強”の称号を再び手に入れたとき、『ラグナロク』はあるべきエンディングにたどり着けるはず。
やれる、やるんだ、鬼木平蔵。
おれは自分にいい聞かせるようにそうつぶやいた。戦争は汚れている。だがそんな異世界で、おれは正義を貫くと決めたのだから。
突然、背筋に寒気が走った。だれもいないはずの部屋に、確かな視線を感じた。
振り向くと、そこには何もなかった。人懐っこく付き従うミツヴァの幻影以外は。
Chapter1:The man with two faces has completed