半ば想定された転生
目を覚ますと、おれは椅子に寝そべっていた。体を起こすが、重い。全身がだるく、腹は減っているのに食欲がない。胸をまさぐると、軍服の感触があった。
部屋を見まわすと、広い。総監執務室の三倍はある。部屋の造りは豪華といえば豪華だ。現実世界では見慣れない調度品もあちこちにある。浮遊するオブジェなど、物理法則を無視した代物まで。
しかし何だろう、くすんで憂鬱な雰囲気が全体に漂っていた。テロ事件で荒んだ警視庁の空気と似ている。呼吸をするたびに、肺に圧がかかる。
「閣下! お目覚めになられましたか?」
声がしたほうを見ると、軍服を着た連中が部屋に押しかけてくる。見覚えのあるデザインだ。さらに、彼らの後ろには使用人らしき人影もある。そのうちの一人が机のほうに歩み寄り、飲みかけのコーヒーカップを片づけ始めた。
「ああ、居眠りしてた」と返すおれ。その瞬間、喉の調子が悪いことに気づく。まだ状況に適応できていない。小説『ラグナロク』を読んではいるが、だれに転生するかは知らされていなかった。
鏡が必要だ。椅子から立ち上がり、部屋を見渡す。窓際に装飾の施された大きな姿見があった。おれはそこに向かい、映った自分を確認する。
——鼻の下にある口ひげと七三分け。普段は冷静なおれも、さすがに声が出た。
「アドルフ・ヒトラー!?」
頭の中で『ラグナロク』の内容がフラッシュバックする。ヒトラーは物語世界の中でも、最悪の悪役だった。冷酷非道な指導者であり、赤い軍勢を蹴散らす黒軍の首領。いわば物語のラスボスだ。
正直なところ、「まさか」という思いと「やっぱり」という感想が入り混じる。嫌な予感は的中したのだ。
「ヒトラーを正義に導けだと? 無理ゲーにもほどがある!」
おれをこの世界に送り込んだ童とのやりとりを思い出しながら吠えると、室内にいる軍人たちが一斉に直立不動の構えをとる。使用人に到っては、コーヒーカップを載せたトレイを落としそうになった。彼らがヒトラーという存在をどれほど恐れているか、その反応で理解する。
だが、動揺している暇はない。捜査と同じく、どんな状況にも的確に順応し、手を打つ。警視総監に昇りつめるまで、それが日常茶飯事だった。
「愚痴っても始まらねえな。外の空気を吸いたい。だれか案内しろ」
連中に目を向けると、だれ一人おれの目を見ない。やがて使用人たちが顔を見合わせたあと、一人の女性が進み出た。机の上のカップを片づけたやつだ。
「では、わたくしが」
上品に振る舞っているが、声の震えが顕著だ。少し可哀想になる。そいつは少女といっても過言ではなく、イギリス風のメイド服を着ている。まるでアニメの登場人物だが、『ラグナロク』の世界観はこういうものだった。
「お前、この辺りに詳しいか?」
「勿論でございます」
「ならよし」
物語を読むだけじゃわからない細部を知る必要がある。ゲーム好きな息子の言葉を思い出した。「困ったらチュートリアルキャラに頼るんだ」。おそらく彼女が、その役割を果たすようだ。
「少し散策に出る。戻るまでに食事を用意しておけ」
部下に命令するのは慣れているため、おれはヒトラーになりきったかのようにだみ声を放つ。
「承知いたしました!」と軍人の一人がいい、ほかの全員も素早く敬礼した。
おれは「外は寒いか?」とメイドに聞き、忙しなく考えた。ヒトラーなんかに転生して、悪の巣窟を正義に変えることは本当に可能なのだろうか、と。