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一.姫君(1)

 

 

 文久元年のことである。

 昨夜から続く薄雪の朝だった。

「鳴海、今日からか」

 出仕の身支度をしていた鳴海の耳に、低い声が告げた。

 大谷(おおや)彦十郎信義、鳴海の父である。

 二本を差して襟を正した鳴海が振り返ると、鴨居の下に腕組みで悠然と立つ彦十郎の姿があった。

「は、本日より姫君の近侍を仰せつかっております」

「そうか。決して油断せず、心してお仕えするようにな」

「心得ておりますよ、父上」

「ああ、それなら構わんのだが」

 そう頷いた彦十郎だったが、鳴海には心成しかその顔が不安げに見えた。

「ご安心下さい父上。姫君の一人や二人、私が御守り出来ぬはずは……」

「覚悟が出来ているならよい。じきに朝餉だ、急がんと食いっぱぐれるぞ」

 鳴海が尚も自らの余裕と自信を口上に並べようとするのを遮り、彦十郎はさっさと居間のほうへ去ってしまった。

「……」

 姫君一人の護衛を仰せつかるのに、何をそれほど覚悟せねばならないのか。

 この時はまだ、鳴海には理解出来なかった。

 確かに丹羽家一の姫は、何かと話題に上ることが多い。

 勉学にも琴や華といった教養にも優れ、幼いながらに先見の明ありと城中では割と評判の姫君だ。

 加えて気性の穏やかな質で口数は少なく、絵に描いたような大名家の姫君。

 実際に姫君との面識はないのだが、鳴海の耳に聞こえてくるのはそんな評判ばかりだった。

 あまりに非の打ち所のない八面玲瓏な姫君でも接し難いものだが、基本的に鳴海の役目は身辺警固。さほど人柄を気にすることもあるまいな、と思う。

 第一、人柄云々以前に、姫君はまだ十やそこらの年端もゆかぬ年齢だ。

(少々張り合いに欠けるくらいだ)

 役目を果たすに不安はないが、実際には何故自分がこんな役に就かねばならないのかと不満に思うところも確かにあった。

 が、今はとりあえず。

(いかん、朝飯食いっぱぐれる……!)

 朝食ヌキで一日は始まらない。

 というわけで、鳴海は考え事もそこそこに、大急ぎで居間へと向かったのだった。

 

   ***

 

 朝靄に煙る空は、まだ眠そうだ。

 早朝の空を見上げ、瑠璃はそう思った。

 まだ人気も閑散とした城内を独り散歩する。

 今朝はあまり人と会いたくない気分だった。

 侍女たちは大勢いるが、気の置けない者はいないに等しい。

 彼女たちの目を盗み、こうして独りでいる時間は、幼い瑠璃にとって何よりもかけがえのないものだった。

 生まれ出でてより何もかも傅かれて育ってきた身は贅沢かもしれないが、それでも己の身を幸多いとは思えない。

 ゆっくりと、歩幅を重ねていく。

 道というものは、どんな小さな歩幅でも、歩き続ける限りは必ず前へと進んでいける。

 けれど、瑠璃には自分の生きる歩幅がどれだけで、今どれ程の距離にいるのか、全く見当がつかなかった。

 漸く城屋敷の裏手にある池の畔まで来ると、瑠璃はその歩みを止めた。

 今日もまた、一日が始まろうとしている。

 あれをして、これをやって──与えられただけの「やるべきこと」をしなければならない。

 そう考え、瑠璃はほんの小さな吐息をこぼす。

 冬の早朝の凍えるような寒気は、その細い息すらも見逃さずに白く浮き立たせた。

(今日は朝餉の後すぐに、手習いかぁ)

 手習いだけならまだ良かった。

 他にも儒者の講義を聞かされ、茶道、華道、礼儀作法に詩歌。果ては「家中の女子は皆やるのだから」という理由で針まである。

 家中をまとめる大名家の姫として、女子の教養は身に付けよ、ということらしい。

 ついでに今日から新たな守役が付けられると聞いている。

(嫌だな……)

 空が晴れても曇っていても、日々瑠璃の目に映るのは薄暗がりの室内。

 質素ながら品の良い内装の施された部屋でも、閉じ込められれば牢獄と同じだった。

「……っくしょん」

 一際冷たい風が吹き、瑠璃は一つ身震いしたと同時にくしゃみをした。

 途端に慌てて口を塞いだのは、自分がここにいることを城の誰かに悟られやしないかと焦ったからだ。

 城郭を抱く山の木々は、身を切るような北風に吹き晒される。

 細々と落ちてくる雪の粒も、その流れに乗っては踊っていた。

 

 

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