001 そうだ温泉に行こう
「陛下。ようやく候補が見つかった模様です」
自室で休んでいたバルゴの元に護衛騎士隊長がやって来たのは、夕刻の鐘が鳴ってしばらく経った頃だった。
「やっと見つかったか。数ヶ月かかったが、まずはなによりだ。魔導師達も、連日の魔術行使でいい加減疲弊しているだろうからな」
「はっ。このまま召喚魔術が一度で成功する事を祈るばかりです。魔導師長より、このまま引き続き勇者召喚の術式に入りたいとの事です。陛下、ご足労いただけますか?」
「勇者・・・か。分かった。すぐに行く」
まだ着替えをしていなかったバルゴは、勇者という言葉に苦笑いを浮かべつつ、手早く装備を整えて自室を出た。バルゴは外で控えていた護衛と共に、魔石の灯りに照らされた城の廊下を歩き始めた。
◇
「はああああ、生き返るわ〜。やっぱり温泉はいいわね〜。ふわああああ…」
まだ疲れが取れていないのか、ちょっと熱めの温泉に足を伸ばして入るやいなや、豪快にあくびが出る。
わたし、千登勢由里は温泉に来ている。色々あって、温泉に来ている。
「忙しいのは嫌いじゃなかったし、徹夜だってたまには仕方ないと思うし・・・むしろ夜中に、会社でみんなと夜食を食べながら仕事をするのって普段と違う感じでワクワクしたし、仕事自体は面白かったんだけどなあ・・・」
岩風呂の縁で肘枕の姿勢を取り、水滴で岩の上に『の』の字を書く。他に誰もいない貸切状態の露天風呂で少し大きめの独り言をつぶやきながら、由里はこれまでの仕事のことを考えていた。
連日の過重労働による疲れと睡眠不足に加え、上司から後輩へのセクハラに嫌気がさして、辞表がわりに上司の顔面に裏拳を叩きつけて会社を辞めてから1週間が経っていた。
あの後、鼻血を垂らしてぶっ倒れたハゲ上司を応接室に運び出し、応急処置をしてもらっている間に、わたしは会社の幹部連中から事情聴取を受けた。
幹部連中が事実関係を確認した後、同僚や後輩からも情状酌量の訴えが出たおかげで、わたしは刑事的な責任を取らされることもなく、反省文だけでお咎め無しとなった。しかし、わたしは、そこはやっぱり社会人のけじめとして、退職することを決意した。
「社会人と言っても、まだ3年目のペーペーなんだけどねー」
短大を出て運良く即就職できた会社だったが、3年目程度では愛着も無い。いや、ハゲ上司を除けば、人間関係も良好だったし、後ろ髪を引かれる思いも多少はあるが、退職のタイミングとしては悪くは無いだろう。
・・・この先もハゲ上司と顔を合わせるのは気まずいし。辞めた会社の事をいつまでも考えていても仕方がない。せっかくの温泉を楽しまないと損だ。
「実家のお土産、何にしようかな。友達もみんな元気かな?」
岩風呂の縁に頭を乗せ、両腕を左右に伸ばして両肘を縁にかけ、湯船の中で仰向けの姿勢に変える。申し訳程度の胸が湯から顔を出す事は無い。しっかり温まること請け合い?やかましいわ。
頭の中で一人ツッコミしてから、明日帰る実家の事や、地元の友達と再会したら何をして遊ぼうかなどと考えつつ、のぼせる直前まで温泉を楽しんだ。
◇
「美味しかったー!もう食べられないよ。ふぅ…」
温泉から上がり、部屋に用意された素敵な夕食をたいらげ、一息つく。
会社の同僚に勧められたこの温泉旅館。会社を辞めたお陰もあって、閑散日の平日に宿の予約が取れたため、実家へ帰る前に泊まってみる事にしたのだが、オススメ通り最高だった。
お酒は飲めなくもない。むしろ好きだ。特にビールが大好物だ。『大酒飲み』とか『お前に高い酒は勿体無い』とか友人からは言われるが、まったくもって心外である。
飲み会では飲むけれど、一人で飲む気になれないタチだ。後で温泉街でもブラついてみようと思っていたこともあり、食後はお酒ではなく、麦茶を飲んでくつろいでいると、何やら外の廊下が騒がしくなった。数人がドタバタ走り回っているような音が聞こえる。
しばらくすると、わたしの部屋がノックされた。従業員と思われる女性の声が、扉の外からかけられる。
「お客様、お休みのところすみませんが、少しよろしいでしょうか」
とりあえず話を聞いてみることにして、わたしはそっと扉を開けた。そこには温泉の仲居さんが、申し訳無さそうな顔をして立っていた。
「お客様、お休みのところ大変申し訳ございません。実はその・・・他のお客様のペットが逃げ出してしまいまして、こちらのお部屋に入ってきていないか、確認させていただきたいと思いまして」
この旅館、ペット同伴OKだっけ?、と思いつつ、仲居さんの話を聞いてみると、逃げ出したのはハムスターで、わたしと同じように、実家に帰省する途中に立ち寄った客のペットらしい。
小動物だし、基本的にはケージから出す事も無いので、事前に許可を取った上での宿泊だったそうだが、仲居さんが布団を敷きに客の部屋に入った際、部屋の入口付近に置いておいたケージに足を引っ掛けてひっくり返してしまい、大脱走劇が始まったのだそうだ。
「まだ、遠くには逃げていないと思うのです」
どこの刑事のセリフだよと思いつつ、顔面蒼白で、今にも泣きそうな顔になっている仲居さんがちょっと気の毒に思えてきたので、わたしも捜索に協力してみようかと思い始めた。わたしは肩の少し下まである髪を、ヘアゴムを使って普段どおりのポニーテールに手早くまとめ、仲居さんに提案した。
「こっちの部屋には入ってきていないと思います。ですが、良ければわたしも探すのを手伝いますよ」
「え、いえ、そんな、お客様にそんな事をさせるわけには」
「食後の運動にちょうど良いですし。動物は好きなので触るのも大丈夫です。ハムスターを飼っていた事もありますので」
「本当ですか!それは心強いです!ありがとうございます!」
仲居さんに両手を握りしめられ、めちゃくちゃ感謝された。もしかしたらこの仲居さんは動物が苦手なのかも知れない、などと思いながら、わたしは自室を出た。
◇
「おーい!どーこだー!」
・・・なんて、飼い主でもないわたしが大声を出したところで、ハムスターは逃げてしまうだけだ。なので、実際は小声で独り言気味につぶやきながら、飼い主様からいただいたひまわりの種を握りしめて、旅館を捜索して回った。
かつて、わたしも実家(二階一戸建て)でハムスターを飼っていたことがある。その時、二階の自室のケージから、一度ならずもハムスターに脱走されたことがあったが、高い確率で一階の薄暗い場所で発見する事が多かった。
・・・つまり、ハムスターは高いところから低いところへ、明るいところから暗いところへ逃げる(持論)。
その経験を活かし、わたしは(許可を得た上で)旅館の地階を中心に捜索することにしたわけだが、当然ながら実家と違って旅館は広い。また、この旅館の地階には客室が無く、一般客が通常は利用しない区画だったため、通路の灯りも落とされ、やや薄暗かった。脱走したハムスターが遊ぶ場所としては最適だが、正直ちょっと怖い。
だからもう引き返そうかと思った、その時だった。
「いた・・・」
見つけてしまった。地階の薄暗い廊下をどん詰まりに向かって歩く、ジャンガリアンハムスターの小さなお尻を。
「あはー、かわいいなあ~」
とか思っている場合ではない。わたしはなるべく足音を立てないように、ハムスターのいる方へと近づいていった。途中、ひまわりの種を床にばら撒いて、罠を仕掛けておく事も忘れない。避けられて通路の手前側に逃げられたとしても、ひまわりの種トラップで足を止めたスキを突いて捕まえるのだ。我ながら完璧な作戦だ。
ハムスターは今、通路奥のどん詰まりで立ち往生している。捕獲チャンス到来だ。
3・・・2・・・1・・・今!
ハムスターを、まさに捕まえようとしたその時だった。ハムスターは、どん詰まりの壁の下にあった隙間をすり抜けて、更に奥に行ってしまった。
「ええええええええ!なんでそんなところに隙間が・・・あれ、これって扉?」
どん詰まりかと思っていたその壁は、小窓もない、壁一面の広さに迫りそうな大きな扉だった。この場所は建物の端だと思ったのだが、実は奥にもう一部屋あるらしい。扉の右端付近には取っ手があり、逆に左端には蝶番がある。手前に引いて開ける事ができる一枚扉のように見えた。
扉の下にはわずかな隙間があるが、明かりは漏れてきていない。また、扉に装飾はなく、何の部屋かを示す札もついていない。少なくとも、客をもてなすような用途の部屋では無さそうに思えた。
「物置かな?随分使ってないように見えるけど。取っ手も埃っぽいし」
物置だとすると、ごちゃごちゃしたモノがたくさん置いてある可能性がある。その場合、そこはハムスターにとっては格好のかくれんぼの場所であり、捜索は面倒なことになるかも知れない。しかし現状は、ひとまずハムスターを袋小路に追い込んでいる状態とも言えるし、物々しい扉の向こうに何があるのか、ちょっと興味も湧いてきた。
ここは援軍として旅館の関係者を呼んだほうが良かったのかもしれないが、わたしは扉の中への好奇心が勝り、それに思い至らなかった。
取っ手を掴み、扉をそっと引いてみる。鍵はかかっていなかった。多少のひっかかりと重さはあるが、ゆっくり扉は開いていく。
「暗っ!明かりのスイッチは・・・」
扉付近の壁をまさぐり、照明のスイッチを探していると、突如、青白い光が部屋の中心付近から広がり始めた。
・・・古めかしい部屋と思いきや、自動照明とは。人感センサーかな?
照明に照らされ、部屋の全貌が見え始める。そこには、ホコリを被った古めかしい掃除機や、穴が空いて使い物にならなそうな布団の類がぎっしりと置かれていた。。おまけに部屋の中はカビ臭い。長い間誰にも使われず、存在自体忘れられていそうな部屋だった。
「やっぱり物置ね。それにかなり古そうなものばかり。自動照明だけは立派なのにね・・・それはさておき、ハムスターはどこかな?」
わたしは照明の中心に立つと、目を皿にして辺りを見回した。人感センサーが再び反応したのか、明かりがさらに強くなる。そして・・・
フッと体が軽くなるような感じがしたと思った直後、わたしの目の前が暗転した。
千登勢由里の姿は、物置から忽然と消えていた。
◇
「おおおお!召喚成功だ!」
誰かの声が聞こえる。
視界が戻り、辺りを見渡すと、わたしは大勢のあやしい格好をした人達に囲まれていた。
3/18 体裁などの修正をしました。
3/24 タイトルに連番を付けました。(以下同じ)
2023/12/31 体裁等修正