ウサギのダンス
井伊さんが教室の後ろの扉から出て行った。
少し時間を置いて、あたしも同じ扉から出た。
廊下をぺたぺたと歩いて行って、トイレに入ると、井伊さんが待っていた。頭を掻きながら笑う。
「ごめんごめん。誘っといて別行動になっちゃって……」
あたしは首をぷるぷると横に振り、言った。
「ううん」
お互い個室に入り、壁を挟んで会話した。
「岩下と僕さー、中学同じでさ。僕がこもこもと一緒にトイレに行くとこ見たらあいつ、よく思わないと思うんだ」
顔が見えないのでいつもの表情での返事が出来ず、あたしは言葉で返した。
「やきもち焼かれるってこと?」
「っていうかさー」
井伊さんは言った。
「僕のことをよく思わないと思うんだよね」
「えっとつまり……」
あたしはよく意味がわからなかったので、聞いた。
「自分たちとは一緒にトイレに行ってくれないのに、あたしなんかと行くのを見られたら……ってこと?」
「違う違う」
笑いを含んだ声が返ってきた。
「……なんて言うか、説明難しいや」
あたしはへこんだ。
話をすんなりわかってあげられない鈍臭い自分が恥ずかしかった。
個室を出ると、鏡の前に2人で並んだ。初めて見る自分と井伊さんが並んでいる景色に、あたしは意外な感想をもった。あの完璧美少女の井伊さんと並んでるのに、あたし、負けてない。いや、負けてる。けど、完璧には負けてない。井伊さんのほうがすらっと背が高くてスタイルもよくて、顔なんか比べものにならないと思ってた。同じ生き物じゃないと思ってた。でも今、鏡に映るあたしは、井伊さんよりもほっそりしていて、顔もかっこよさでは完全に負けてるけど、あたしのほうが女の子らしい。
なぜそんなことを思ってしまったのかはわからない。確かに1人でいる時は1時間ぐらい自分の顔をうっとりしながら鏡で見ていることはよくある。正直ナルシストなところはある。中学の頃、親戚のおばさんに「あやちゃん、女優さんになれるんじゃない?」とお世辞で言われ、舞い上がってしまってからの癖なのかもしれない。でもあたしは本気で思ってしまったのだ。凄い! あたし、あの井伊さんに負けてない! 外見だけは負けてない!
井伊さんが鏡に自分を映しながら、髪をブラシでといた。ミルクキャラメルみたいな色の綺麗なストレートヘアーをしなやかに整えるその動きは、まるで完璧超人だった。その横で真っ黒なくせっ毛をブラシで突っついている子は動きにしなやかさがまったくなくて、見た目では完璧にってほどには負けてないくせに、動きがザコ丸出しだ。井伊さんは切れ長の目の動きもかっこよくて、テレビの中で見るひとみたいだ。あたしにこんな内面から滲み出す美しさはない。あたしの目はたぬきみたいにきょろきょろと落ち着きがない。
「明日さー」
井伊さんが鏡の中のあたしを見ながら、言った。
「また遊びに行っていい?」
「えっ?」
今日じゃないのか、とあたしはがっかりしたけど、鏡の中の自分は無表情だった。
「うん」とだけ答えた。
「ソフトケース持って来るから、あのベース貸してよ」
なんで今日持って来なかったの? 用事あったの? 今日でもよかったのに。今日おいでよ。ベースは明日でいいじゃん。ベースのことがなかったら遊びに来てくれないの? とそれだけ思ったが、あたしの口から出た言葉はただ一言だった。
「いーよ?」
別にいいよ? みたいな、言い方……。
井伊さんが帰って行ってから少ししてあたしも教室へ帰る。廊下を歩くと上履きがぺたぺたと音を立てる。どうしてあたしの靴はこんな音が鳴るんだろう? 歩き方がヘタクソなんだろうか。意識して音を立てないようにすると歩き方がへんになる。泥棒が歩くみたいに爪先からの忍び足になってしまう。たぶん靴が悪いんだ、と思ったけど、残念ながらみんな同じ上履きだ。今度他のひとの歩き方を観察してみよう。どんな音がするか聞いてみよう。
教室の後ろの扉を開けて中へ入る。
ぺたぺたと歩いて行くと、小此木くんの席の横を通って、自分の席へ。
小此木くんの机の上に本が置いてあるのを発見。
また、詩集なのだろうか?
気になって、まじまじと見た。
なんだかそれっぽい、もわもわとした表紙の本だ。嫌味な感じに高尚そうだ。真ん中に黒い文字で『松浦なんとか詩集』と書いてある。名前は難しくてなんとかとしか読めなかった。何が書いてあるんだかわからない落書きのような絵がいっぱい、薄い印刷でされてあって、そのど真ん中にさっきの文字だけがくっきりとした文字でドンとある。よく見ると彼の机の上にも同じような、宇宙人みたいなものを描いた落書きがいっぱいあった。小此木くんが鉛筆で書いたものらしかった。
本のタイトルがどこにもない、と思っていたら、あった。手書きみたいなヘタクソなピンク色の文字で、『松浦なんとか詩集』の文字を取り囲んで、『ウサギのダンス』と書いてあった。大きすぎて見えなかった。かわいいタイトルだ。開いてみたら中では文字たちがウサギみたいにぴょんぴょんと飛び跳ねているんだろうか。ちょっと中身が気になった。
あたしはきょろきょろと周囲を確認した。
級友たちはそれぞれのグループに分かれて会話をしている。1人の子は自分の席で予習をしたり、スマホをいじったりしている。
小此木くんの姿は見えない。
ちょっとだけ……。
そう思い、あたしは小此木くんの本を手にとった。
1ページ目から難解なことばの海が目に飛び込んで来た。なんだこりゃ、としか感想がもてなかった。まるで漢字とひらがなとカタカナで書かれた数式の羅列だ。意味がわからないどころか意味があるのかさえわからない。すぐに本を机の上に戻すつもりだったけど、あまりの意味のわからなさにあたしは難しい顔を本に近づけ、頭の中で書いてある文字を音読しはじめた。
その時だった。
「ふはははは! かかったな!」
背後のロッカーの扉がバカーン!とおおきな音を立て、その中からあたしを指差しながら小此木くんが飛び出して来た。
心臓がほんとうに口から飛び出すかと思った。あたしは「うわあ!」と声を上げ、背後に突然現れたバケモノを見るように振り向いた。