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トイレといじめ


 井伊さんの帰り際、

「このベース、あげるよ」

 あたしは200万円のそれを井伊さんに捧げ、言った。


「いやいやいやいや……!」

 井伊さんは残像が見えるほど手を振った。

「何を言い出した!?」


「じゃ、貸す」

 あたしがそう言うと、井伊さんはようやく手を振るのをやめ、

「貸した物が戻って来るとは限んないよ? いいの?」

 悪いひとの笑顔を作り、言った。


「いーよ? 信じてるから」

 戻って来なくてもべつによかったし。


「じゃ、今度貸してよ。自分のソフトケース持って来るからさ。この重たいハードケースじゃさすがに持って帰れん。正直これ、家でビシバシ弾きたい」


「うん!」

 あたしは自分が今どんな笑顔になっているのかわからなかった。

 また遊びに来てもらえることが確定したのだ。


   6


うちの高校は名門でも底辺でもない。ふつうだ。下から数えたほうがやや早いが、商業科と普通科に分かれていて、普通科は結構いい大学に進学するひともいるし、高卒で就職するひともいる。商業科は就職組が多く、卒業生にはやくざに就職したひとなんかもいたらしい。バラエティーに富んでいる。



とはいえ大病院の娘なんてのは珍しく、過去にもそんなのはあたし1人らしかった。第一志望の公立に落ちた時、両親は受験し直せと言ったが、あたしは納得してここに入った。医者の娘のくせにこんなふつうのところに通うことに悔しさも落ちこぼれ意識もなかった。マンガ家になるんだから高校なんてどこでもいいじゃんと思っていた。



大病院の娘だということは誰にも言ってなかった。医者の娘だということはバレていたが、家があの、町で一番級に巨大なもめん豆腐だということまでは誰も知らなかった。知られたくなかった。みんなの中で浮きたくなかった。地味に、ふつうに、目立たずいたかった。マンガの才能は天才として、リアルのあたしなんか『あたしなんか』でよかった。



   7


井伊さんとライバルにはなったけど、友達になれたのかどうかはわからなかった。あたしなんかが井伊さんの友達というのはおこがましいような気がして、それどころか友達という言葉自体が自分に身分不相応な気がして、友達だなんて意識したら、かえって妙によそよそしくなってしまう。小此木おこのぎくんを狙うライバル同士だというのを否定できなかったのは、そういう繋がりならいいかもと思えたからかもしれなかった。



後ろの席を意識してしまうようになった。振り向くと井伊さんがあたしを見つめてニコニコしているような気がした。消しゴムをわざと落として、それを拾うのを言い訳にして振り向いてみると、井伊さんは難しそうな顔をして教科書と睨めっこしていた。自意識過剰に顔が赤くなり、しゅんと下を向いて席に戻ると、もしかしたらそれを察してくれたのか、シャーペンのお尻で背中をつんつんされた。


「ねー、こもこも」


 こもこもだって!

『菰原ちゃん』から『こもこも』に一気に昇格!?

 飛び上がるほどの嬉しさだった。


 あたしはにっこり振り返ることは出来たけど、言葉は何も口から出て来なかった。

 彼女もあたしに『春加はるかちゃん』とか『ハルちゃん』とか『ハルハル』とか呼ばれたら嬉しいのだろうか? 振り返ったあたしの口から「何? ハルちゃん」とか出たら、喜んでくれるのだろうか?

 そんな馴れ馴れしいのムリだ。そんなことをしたら彼女の格が下がる。きっとあたしなんかに馴れ馴れしくされたら、彼女をムッとさせる。


 井伊さんはそんなことどうでもいいような軽い言い方で、

「授業終わったら一緒にトイレ行かん?」


「えっ? うん」

 

 あたしも軽く答えてから、重く考え込んだ。



トイレは1人で行くものだった。賑やかなグループの子らはみんな連れだって行っていたけど、いつもそれが理解できずにいた。1人で行ったらトイレに何か怖いものが潜んでいて、そいつに殺されるとでも思っているんだろうか。それとも自分のいないところで悪口を言われそうだから? まったく理解できなかった。



井伊さんはそういうグループの中にはいなかった気がする。人気者で、賑やかなグループの子たちとも親しく見えたけど、トイレは一緒に行かなかった気がする。一匹狼的な存在感で、みんなと仲良くはするけど1人でいることのほうが多い。だからといって『陰キャ』という言葉は似合わなくて、笑顔が太陽みたいに明るくて。



でも2人でトイレなんてどうしよう。あたしは井伊さんにとって、特別な存在になったってことなんだろうか。まったく理解できなかったはずの『一緒にトイレ』の意味をあたしは理解できたような気がした。きっと仲良しのしるしなんだ。





 授業が終わると、井伊さんは少し困ったような顔をして、言った。

「あー、悪い。やっぱり1人ずつ行こう」


 あたしはかなりがっかりした顔をしたのかもしれない。

 彼女はフォローするようにこう言った。

「岩下たちが見てたら何か言われるかもしれない」



岩下。


岩下いわしたしおりさん。


あたしは1年の時、彼女たちのグループからいじめを受けていた。


あたしが医者の娘で、中学までは県で一番の学校に通っていたことがバレて、しかも気がちっちゃくて何も言わないやつだから、気に食わない上にいじめやすそうだと思われたのかもしれない。机の中に『シネよ』とか『学校来んな』と書かれた紙が入れられてあったり、カバンの中にねっちょりした残飯を入れられてあったりした。



音楽室に監禁され、髪を掴んで引っ張られたり、お腹を蹴られたりもした。2年生になってから彼女らも大人になったのか、そういうことはぴたりとなくなった。でもあたしはあれから音楽室に入れなくなった。岩下さんたちの声が聞こえて来るとうつむくようになった。忘れられない。



忘れられないといえば、あの音楽室に、あの時、井伊さんが入って来たことがあった。怖い目で岩下さんたちを睨んだ井伊さんに、あたしは無言で助けを求めた。「何やってんの?」「バカじゃないの、あんたら」井伊さんはそう言うと、「顔はやめときなよ」とだけ残して、音楽室の扉をぴしゃりと閉めたのだった。



いじめられている子をかばうと自分もいじめられるのを恐れたのだろうか。でもあの時、岩下さんたちはまるで先生にでも見つかったように動きを止め、冷や汗つきみたいな笑いをみんな浮かべていた。井伊さんは強いし、人気がある。岩下さんたちも彼女と一緒にトイレに行きたいはずだ。岩下さんたちが井伊さんをいじめるなんて……あ。



今、あたしと一緒にトイレなんか行ったら、またあたしがいじめられると心配してくれたのかな……。



でも、そんな心配するぐらいなら、あの時助けてほしかった。



あの時泣きながら家に帰ったのは、井伊さんのせいだと思っていた。








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