ライバル宣言
冷蔵庫の中にはいつも缶入りのカルピスソーダがある。500ml入りのおおきな缶だ。水やお茶は別として、パパはブラックコーヒーかカルピスソーダしか飲まない。ママはレモンティーかカルピスソーダしか飲まない。あたしは何でも飲むけどおかげで選択肢が少なかった。ゆっくり時間をかけてお菓子を探す。ほんとうはパパがお中元で貰ったフランスのお菓子がすぐ目の前にあるけど、あたしはわざとゆっくり時間をかけてお菓子を探した。
ベースの音は止んでいた。読んでいる。あたしの罠にかかって、井伊さんはあたしのマンガを読んでくれているに違いない。たまに短くベースの音が1音だけ鳴った。それが表しているのが感動なのか退屈なのかはわからなかった。あたしはドキドキしてカルピスソーダを冷蔵庫から取り出す手が震えた。ガラスのコップを落として割りそうになった。大袈裟な缶に入ったフランス菓子と一緒にトレーに乗せて、ようやく歩き出した。ぼちぼちあたしの自信ある場面まで読んだ頃だ。
部屋の扉を開けると井伊さんが背をこちらに向けていた。あたしの学習机の椅子の上にあぐらをかいて、あたしを振り向きもせずに何かを読んでいる。何を読んでいるのだろうw 罠にかかった美しい女鹿を見て興奮するように、あたしはにんまりと笑う。「わははは! かかったな!」と意地悪な猟師のように叫びたい気持ちを抑えて、低い小さなテーブルにトレーを置くと、その背中に近づき、どこを読んでいるのか確認する。もうほぼ最後のほうまで読み進んでいた。
「わあっ」
あたしは白々しい声を上げた。
「読んじゃダメって言ったのに!」
「待って。もうちょっとだから」
井伊さんは没頭していた。無言でうんうんとうなずきながら、ページをさくさくめくる。
あたしはドキドキしながら待った。彼女の感想を待った。
井伊さんは最後のページのおまけページまでしっかり読んでくれながら、いきなり笑い出した。
「これ何? ギャグ? おもしれー!」
ギャグだった。おまけページはキャラ同士がアホな会話をしているギャグだったので、笑ってもらえるのは嬉しいことだった。
あたしは何も言わずに、ただドキドキしながら感想を待った。すると井伊さんがようやく振り返り、言った。
「面白かった! 菰原ちゃん、こんなの書くんだねぇ」
ちょっとがっかりした。「天才じゃね?」とか言われたかった。
「でも今時大学ノートに鉛筆はないんじゃね? ペンタブとか使えばいいのに」
どのキャラが気に入ったとかどの場面がよかったとか言ってほしかった。
「あ、そうか。これネームなの? 誰か作画の人見つけて、原作者になりたいの?」
絶対マンガ家になれるよとか言ってほしかった。
「でも才能あるよ。うん、面白かったもん」
気づくとあたしの顔はめっちゃニコニコ笑っていた。最初の『面白かった』を言われた時からたぶん、ずっとだった。
「もぉ! 絶対読んじゃダメって言ったのに!」
「いやだってそれ、『読んでくれ』の意味だろ」
井伊さんの目があたしを見上げた。でっかいどんぐりみたいな、悪戯っぽい目で。あたしはそれを好きだと思った。長いさらさらした茶色の髪が、あたしに悪戯しろと言うように左右に揺れていた。あたしはそれに三つ編みやポニーテールや色んな悪戯をしたくなってむずむずしている両手を、自分の胸に当ててぎゅっとした。本当は背中から思いきり抱きしめたかった。でも彼女の名前も呼べないあたしには当然、そんな勇気はなかった。
井伊さんのカルピスソーダがなかなか減らなかった。
絨毯に座って、お菓子とカルピスソーダを2人でつまみながら、あたしは彼女のコップが空に近づいたら新しい缶を持って来ようと狙っていた。しかしあたしのがほぼ空に近づいても、彼女のコップにはまだ半分以上ある。遠慮してるのかな。遠慮なんてちっともしなさそうに見えるのに。実は緊張してる? かわいい。そう思っていると、話しかけられた。
「こんなお菓子初めて食べたー」
「パパが薬屋さんからお中元で貰ったやつ」
「いつもこんな高級なの食べてるの?」
「……あたしの手柄じゃないから」
あたしは自分の家がお金持ちだとか言われると、いつも嫌悪感を覚える。なぜだかはよくわからない。自分はふつうなのだと思ってほしいのかもしれなかった。
「ところでさ」
井伊さんがあたしのほうへ身を乗り出した。
「ココノギくんのこと」
「うっ」
「好きなの?」
ニヤニヤ聞いて来る。ぐいぐい聞いて来る。
あたしは答えた。
「……べつに」
「じゃ、なんであの時、あんなに見てたのかなぁ?」
しらばっくれるなという態度で聞いて来る。
あたしは本心を答えることにした。
「あのひと、机の上に『現代詩全集』とか堂々と置いてるんだよ?」
「へえ?」
井伊さんはたじろぐこともなく、さらにニヤニヤ聞いて来る。
「そういうひとが好きなの?」
「ちがーーう!」
あたしは思わずおおきな声を出していた。
「ふつうの感覚ならキモいでしょ? ポエムの本が好きで、愛読してるなんて、ふつう知られたくないでしょ? そんなものを堂々と人に見せてるんだよ? そういうのが出来るひとって、一体どんなこと考えてるんだろうって、思って、興味もって。あ! 興味っていっても『イグアナってどんな動物だろう?』ぐらいの興味だよ? 恋愛感情とか、全然」
「よく喋ったねぇ」
井伊さんは初めて喋れるようになった子を見て喜ぶように、
「ま、つまり菰原ちゃんはココノギくんに、興味がある、と」
「だからイグアナなんだって!」
「とりあえずライバル、よろしく!」
井伊さんはそう言って手を差し出した。
「僕もココノギくんいいなって思ってるから」
「あれ?」
あたしは握手をしながら、きょとんとした。
「自分のこと『僕』って、言うの?」
「あー、うん。本当のあたしは僕なんだ」
「本当の?」
「教室では実は自分のこと、作ってんだよね」
井伊さんはあっけらかんとした顔で告白した。
「僕のこと、気さくで明るい、いかにもな陽キャだって思ってない?」
あたしは深くうなずいた。そうとしか思ってなかった。
井伊さんはさらに告白を続けた。明るい声で、
「本当は陰キャなんだよ、僕。1人で部屋でゲームとかするほうが好きだし、ベースだって誰かと楽しんでとかじゃなく1人で黙々と練習して弾けるようになったし。頭ん中は日本の現在の政治のこととかぶつぶつ考えてる」
「そ、そうなの?」
意外だった。でも話を聞く限り、あたしの同類ではなさそうだった。あたしはゲームはやらないし楽器を上手になるまで黙々と練習はしないし、何より政治とかムリ。
「だからさ、僕とココノギだったら、合うんじゃないかなって」
頭の中で2人が手を繋いでデートしているところを想像してみた。うん、意外と似合うかも。見た目陽キャな彼女といかにもな陰キャの彼だけど、顔もスタイルもいいという一点ではバランスが取れていた。でもあたしはツッコみたかった。カップルっていうのは野球でいえばピッチャーとキャッチャーみたいなのがいいんじゃないかって。2人はどちらも投げたがりの、いわばどちらもピッチャータイプに見えた。
何より彼の名前は小此木くんだよ? ココノギくんじゃなくて。でももしかしたらわかってわざと言ってるのかもしれないし、それがクラスのみんなが彼を呼ぶ時の呼び方であたしだけがそれを知らないのかもしれないし、で、ツッコまずに黙っていた。彼女と握手をした自分の手をじっと見た。あれっ? なんか、あたし……。
ライバル宣言を受けて立ってしまった?




