読んじゃダメだよ?
2曲目のアカペラが始まると、それまで黙ってマリアの歌を聴いてくれていた井伊さんが言った。
「これにピアノつけれる?」
「え」
「この曲、歌だけじゃん。伴奏つけてみてよ、ちょっと」
「おお……」
あたしは立ち上がった。リサイタルの舞台上に立つピアニストみたいに行儀よく、かちんこちんに緊張しながら、黒いローランドの電子ピアノの前に座り、電源を入れる。気分は産まれて初めて他の子と一緒に遊ぶ子犬だった。お尻に近い背中をカチカチに固くして、自分でどんな表情、どんな色になってるかわからない顔をして、鍵盤の上に指を乗せた。井伊さんのあんまり期待はしてないみたいな表情はあたしを緊張させないためだ、たぶん。その優しさに応えて、あたしは歌のメロディーをピアノで弾き出した。
「歌メロかよ!」
井伊さんのツッコミが入った。
「和音で伴奏つけろよ」
あたしはぷるぷると産まれたての子犬のような目で首を横や縦に振った。
「ま、いいや。ベース、見せてよ。どこ? セッションしようぜ」
そう言って井伊さんは部屋をきょろきょろ見回す。
あたしは立ち上がって、八畳の部屋の壁のど真ん中にどんと鎮座している男らしい洋服箪笥の扉を開けた。パパのものだが置き場に困ってあたしの部屋に置いているのだ。
天然防虫剤の匂いがしゅわっと、部屋に解き放たれる。
その中に黒い棺桶みたいな箱に入って、パパのベースが偉そうに立っていた。
「これ」と、あたしは言った。
「すげえ!!」
井伊さんが声を上げた。
「見せて! 見たい! 中見せて!」
なぜかわからないけど興奮している。
あたしは大人の男性の体でも引っ張り出すように、重たいそれを箪笥の中から一生懸命抱き上げて出すと、床に置いた。
開くとビーグル犬みたいな色をした、昭和の香り漂うエレキギター型のおおきな楽器が現れる。
「おわぁ!」
井伊さんがさらに興奮して声を上げた。
「これ、ヴィンテージだよ! オークションで売ったらたぶん200万円くらいするやつ」
「に、にひゃくま……?」
「これがどうかはわからんけど、それぐらいの値段で売ってるの見たことあるよ」
「ま、まじか」
自分の部屋に200万円がずっとあったことを知り、あたしは徳川埋蔵金を掘り出した気分に呆然とした。
「弾いてみていい?」
井伊さんは埋蔵金を前にして興奮していたのだ。
「弾いてみていい? ちょっとだけ」
「ちょっとじゃなくて、全部いーよ」
あたしは埋蔵金全部持ってけみたいに言った。
井伊さんはバッグから小さなスピーカーとコードを取り出すと、パパのベースに繋ぐ。ボリュームは控えめながら、ずーんと綺麗な低音が部屋に響き渡った。
「きれい……」
心から落ち着くようなその音色にあたしは思わず言った。
すると井伊さんが凄いことをやりはじめた。
物凄いスピードで右手を回転させ、つたたか、べんべん、つるるた、た、べんべん。
人間が出しているとは思えない、魔法みたいなそのカッコいい音に、あたしの口が無言でおおきく開く。
上手い!
この人ものすごくベースが上手い!
もしかしてプロじゃないのか!?
次にはマリアの歌に伴奏をつけはじめる。マリアの歌を邪魔しない程度に、音楽を壊すことなく、そこにお邪魔して行く。初めて聴く曲にどうしたらそんな風に合わせることが出来るのー!?
あたしの目の前にマリアが現れた。井伊さんと並んでそこで歌っている。井伊さんがオーディオ機械の中からマリアを召還したのだった。魔法だ!
「消すよ?」
曲が終わると井伊さんはそう言ってCDを止めた。
「さあ、セッションしようよ。ピアノ弾いて」
「うんっ」
井伊さんと音を合わせてみたかった。あたしは喜んでピアノに再び向かう。緊張は取れていた。
「スリーコードで合わせよう」
「スリーコードって何?」
「…………」
「ごめん」
結局井伊さんにスリーコードとは何かをレクチャーされ、なんとか初セッションは無事終了した。あたしはずっと同じ三つの和音を繰り返しているだけで、井伊さんがそれを音楽にしてくれた。楽しかったけど、正直あたしは要らないような気がした。井伊さんが奏でる魔法みたいな音を手放しで聴いていたかった。
興奮したら喉が乾いた。
それでようやくあたしは井伊さんに何のおもてなしもしていなかったことに気がついた。
「あ。ジュースとお菓子持って来る」
ピアノの電源を消して立ち上がったあたしに、井伊さんはまだベースを弾きながら、
「うん。実は出してくれないのかなーと思ってた。喉乾いたね」
そう言ってからかうみたいに笑った。
あたしは立ち上がると、出口とは反対方向に少し歩き、自分の学習机に向かった。井伊さんは気がついてない。黙々とベースを弾いている。
並んでいるノートの中から一冊を正確に取り出すと、閉じたままそれを机の上にぱさっと置いた。あたしのマンガが描いてあるノートだ。
「これ、絶対に読んじゃダメなやつ」
そう言うと小走りで部屋を出た。
乙姫様の気持ちがわかった気がした。
浦島太郎に「決して開けてはなりません」と言ったのは、ほんとうはとても開けて見てほしかったのだ。
部屋の扉を閉める頃にはベースの音は止まっていた。




