あたしのマリア
5
初めての訪問者を受け入れることになると頭が回り出す。いつもはぼーっと感じてるだけの自分の部屋を、正確に頭に描きはじめる。恥ずかしいものはなかったっけ。福田さんが綺麗にしてくれていはいるけど。かわいい部屋だねって言われるような部屋ではないのは確かだ。そこはパパの要らない物とあたしの所有物がごっちゃになってる空間。あたしのマンガコレクションとパパの男らしい洋服箪笥が共存している。カーテンはどんな柄だったかな。天井はどんな模様だったかな。変な部屋って思われないかな。
井伊さんと並んで自転車を漕ぐのは初めてではなかった。途中までは帰りが同じ方向で、井伊さんはいつも1人で帰っていたので、たまたま帰り道で遭遇して、なんとなく2人で自転車を並べたことが何度かあった。通り道にある神社にある由緒とか、あそこのラーメン屋さんが美味しいだとか、井伊さんがそんなことを話してくれて、あたしは「うん」とか「へぇ」とか笑うだけ。たまに質問してくれると嬉しかった。短いことばで意味のわかりにくい返事しか出来なかったけど、嬉しかったんだよ?
9月だったけど太陽はまだ夏だった。あたし達は長い登り坂を汗をかきながら笑顔で登り、たまに吹く優しい風に助けられて、ようやく見えて来た地面から生えている巨大なもめん豆腐を指さすと、あたしは言った。
「あれがうち」
「ええっ!?」
2人で並んで自転車から降りて、広い前庭を通り、玄関に辿り着くまで、井伊さんはうちの建物をびっくりしたように見上げていた。そんなに珍しいものだとは思わなかった、自分の家が。あたしの家は凄いのだと思ったこともなかったし、他の友達の家がしょぼいと思ったこともなかった。小学生の時までは友達が家に遊びに来ることはたまにあったが、誰も何も言わなかった。今から思えば自分も含めてみんな大きな病院の裏側に個人宅の玄関があるなんてふつうのことだと洗脳されていたのかもしれない。こどもは洗脳されやすいから。
「ふえ~」
駐輪スペースにやたらかしこまって自転車を停め、玄関に入ると井伊さんは高い天井をまるで宇宙でも見るみたいに見上げて、
「菰原ちゃん家って、大富豪だったんだねぇ」
「あたしが建てたんじゃないもん」
あたしはスリッパを出しながら、少し不機嫌そうな顔をしたかもしれない。
「いーよ?」
あたしなりの『どうぞ、上がって』の意味で言った。
階段を昇る時も井伊さんはミケランジェロの絵でも壁に飾ってあるように壮大な目と口を広げて、
「これが個人宅って……」
井伊さんが大袈裟に驚くたびにあたしは不機嫌になった。
「あたしは偉いひとなんかじゃないもん。ふつうだもん」
部屋に入るとあたしがなんにも言わないので井伊さんは勝手にベッドに座り、荷物を床の絨毯に置いた。
「ピアノってそれ?」
ドキドキしていた部屋に対する感想はなく、壁際に置いてある黒いローランドの電子ピアノを目で指す。
「あのね。パパの書斎にアップライトの本物のピアノもあるんだけどね。部屋に鍵がかかってるから。それは今、弾けなくて……」
「いつも弾いてるのはこれってことね?」
井伊さんは優しくあたしの言いたいことを要約すると、
「わっ、CDがいっぱいある! リサイクルショップに来たみたい!」
ガラスケースに入ったあたしのCDコレクションを見つけ、声を上げた。
ドキドキした。自分の心の中を見られるみたいにドキドキした。そこにはあたしの好きなCDばかりが並んでいる。アルゼンチンのポップス、ギリシャのフォーク、マレーシアのジャズ。洋楽や日本のポップスもあるけれど、ふつうは誰も知らないものばかりだ。他のひとは友達と話を合わせる用の音楽と、ほんとうに自分が好きな音楽を分けて持っていて、TPOによって使い分けているらしいけど、あたしにはそんな用意は出来てなかった。そこにはあたしの本心ばかりがあった。
あたしは勇気を振り絞って、大好きなマリア・ベレーザのアルバム『ファンタジア』をそこから取り出して、
「あたし、これが好き!」
東京スカイツリーから飛び降りる覚悟で言った。
「へー、聴かせてよ」
井伊さんは飛び降りたあたしを軽々と受け止めた。
色とりどりの南米の蝶が描かれたジャケットを開けると、あたしはパパのお下がりの高級オーディオ・セットにCDを入れた。
イントロのムーディーなベースが始まる。
井伊さんはベーシストなんだから絶対に気に入るはずだ。
そこから美しいピアノの旋律が始まり、マリアがまるで楽園に響くようなたっぷりとしたアルトで歌い出す。
美しい。やっぱり美しい。
誰かと一緒に聴くマリアの音楽はいつも以上に美しすぎて、あたしは涙が流れそうになった。
井伊さんがどう言ってくれるかドキドキするから緊張の涙も含まれていた。
井伊さんは歌が始まるとすぐに言った。
「ええ……。なんでこんなの聴くの?」
「え」
目の前に広がっていた楽園の風景が一瞬にして消えた。
「これ何語?」
「スペイン語」
「スペイン語わかるの?」
「わからないけど……。わからない言葉のほうが……イメージ広がるから」
「わからんわー」
井伊さんは笑い飛ばした。
あたしは泣きそうになった。
「でも、いい音~」
「え?」
井伊さんの言葉に顔を上げた。
「ライブに来たみたい。低音もずっしりしてて」
そう言うと井伊さんは膝に肘をついて目をつむり、音楽に耳を傾け出した。
「うん。素直な心になれるような音楽だね」
2曲目のアカペラが始まるまで井伊さんは何も言わずにあたしの大好きな音楽を聴いてくれた。
ジュースどころかお茶さえ出すことにも気づかないあたしにも何も言わなかった。