気さくな彼女
4
「ねぇ、菰原ちゃん」
後ろの席から声をかけられ、あたしの世界が壊れた。
でもあたしは笑顔をセットして、けっして怒った顔にだけはならないよう、ほんとうの心を見せるよう気をつけて、振り返る。
井伊さんに声をかけられると嬉しい。しかも菰原ちゃんって呼ばれちゃった。もっともっと話しかけてほしい。あたしのほうからは話しかけられないから。ましてや名前を呼び返すなんて絶対にムリ。
「それ、もしかしてピアノ?」
井伊さんはあたしの指がいつものように机の上で踊るのをじっと見て、ようやくその動きがトランペットではなくピアノを弾いているのだとわかったようだった。
「ピアノ弾くのが趣味なの?」
あたしは首を横に振る。
「弾けるから弾いてるだけ」
小さい頃からママに習わせられたから弾けるだけ。好きな音楽があるからそれを指先で歌っているだけの鼻唄。ピアノを弾くのは別に趣味じゃない。音楽は好きだけど歌うことが趣味なわけじゃないひとが鼻唄を歌うのと一緒。そういうことを言おうと思って短い言葉で答えた。後から思えばなんか超絶技巧のピアノが弾けるひとが言ったみたいな嫌みな台詞みたい。井伊さんに『イヤな感じの子』と思われても仕方なかった。
でも井伊さんは好印象をもってくれたらしい。凄いピアニストと友達になりたかったらしい。
井伊さんの顔が輝き、あたしのことをまるで尊敬するみたいな目で見つめた。
「凄い! 今日、菰原ちゃん家、遊びに行ってもいい?」
「えっ」
「もしよかったらバンド組もうよ!」
「あう。あの……」
喋らせてくれない。いや違う。あたしが言葉を隙間に挟むのが致命的に下手なだけ。1人でいる時はあたしの中はことばでいっぱい。誰かと喋る時にはそれが嘘だったように、一瞬にして消えてなくなる。何もことばのなくなった暗い殺風景な狭い部屋に霧が立ちこめて、ことばなど元々この世にあったのだろうか? みたいにあたしは立ち尽くす。どうしたら井伊さんみたいに軽やかに口からのことばが出せるのだろう。どうしたらひまわりみたいにあかるく他人と話せるのだろう。
「おちゃかたまとか、好き?」
「えっ」
「おちゃかたまだよ。知らない?」
知っていた。現在人気のロックバンド。人気アニメの主題歌をやってて、うるさくて、歌手のひとの声が女の子みたいだということだけ知っていた。
「菰原ちゃん、どんな音楽聴くの?」
「ああ……う……」
聞かれてしまった。あたしの好きな音楽について。本当のことを話すべきだろうか。日本ではおそらく誰も知らない、YouTubeで見つけたアルゼンチンのマリア・ベレーザという女性歌手が大好きだと、正直に言うべきだろうか。個人輸入でCDなんかを入手して、パパのお下がりの高級オーディオ・セットで毎日のように聴いていると、言うべきだろうか。それを言うのは自分の裸を見せることに等しいように思えた。
それとも誰でも知ってるからあたしも知っている、でも全然好きじゃない日本の有名アーティストの名を答えるべきだろうか。
「あの楽器……」
あたしは逃げるように話題を変えた。
「……は、楽器……、なんかやるんですか?」
『井伊さんは、楽器、なんかやるの?』なんて綺麗に気さくに聞けなかった。
名前のところはもにょもにょ誤魔化して、最後は丁寧語になった。
井伊さんは何も気にしてない笑顔で答えた。
「ん? あたし? ベースやるよ」
「まじで!」
あたしは思わず大声が出た。
「んっ。いい声だ」
井伊さんが笑う。
「そういう声、いっつも出そうよ。……んで、ベースでなぜ驚いたし?」
「うちに……、ベース、あるの」
あたしはいつものどもりどもりに戻り、言った。
「パパが……、昔、弾いてたやつが。置き場所なくって、あたしの部屋に」
「まじで!?」
今度は井伊さんがあたしを軽く凌ぐ大声を出した。
「行く! 行く! そのベース弾いてみたい! 菰原ちゃんのピアノも聴きたい!」
なんてことだ。
妄想が現実になってしまった!