動物園へ
舌は食べ物を味わう器官だと思っていた。好きな人をいじめる器官でもあることを初めて知った。あたしは他人との距離の取り方がわかってない。物凄く距離を置くタイプだけど、近くなると、遠慮なく、近くなりすぎる。いつもは余裕がなくて、自信のない動きしか出来ないくせに、調子に乗ると自信たっぷりにやりすぎる。
好きにさせてやる!
頭の中でそう何度も思いながら、あたしは自分の心のままに、ハルちゃんとの境界線を壊した。調子に乗った自信たっぷりの動きで、ハルちゃんをいじめて、いじめて、いじめて、いじめた。
ベッドに沈んでハルちゃんは、あたしがようやく剥がれると、とろんとした目をしていた。切れ長の美しい目が壊れて、理性を失ったしるしの涙を左右に流していた。
あたしはその唇にもう一度、短くキスをすると、見下ろして、言ってあげた。
「遊びだからね?」
珍しくあたしには余裕があった。いつも1人で部屋にいる時みたいに、お喋りになっていた。ベッドからようやく身を起こしたハルちゃんがかわいい子犬みたいに見えた。これはあたしのものだ、と思った。何でもあたしの言うことを聞く、あたしのペットだ。「好きだよ」なんて言ってあげない。あなたの口から言いなさい。
「今度の日曜さー」
あたしは絨毯の上に座ると、嫉妬を誘うように、言った。
「凛と動物園行くんだー」
ハルちゃんは黙っていた。
なぜだかボロボロの傷だらけになっているように見えた。
そこへあたしは助け船を出す。
「ハルちゃんも、来る?」
あたしはニヤニヤしていた。
彼女は懇願するはず。
連れてって! 僕も連れてって!
「行くわけないだろ」
彼女は即答した。
「なんであんたらのデートにあたしがついて行かなきゃいけないんだよ」
ハルちゃんはベッドから降りて来ると、あたしと向かい合って座り、麦茶を啜った。
茶色のロングヘアーが乱れて、顔の上半分を隠していた。
あたしの自信はとても脆かった。
いつものオロオロしたあたしにあっという間に戻り、何を言ったらいいか、わからなくなる。
しばらく向かい合って黙っていたが、やがてハルちゃんが言った。
「帰るね」
マリアのアルバムは雨の匂いのする最後の曲を流していた。
16
あたしは昨夜、布団の中で悶々としていた。後になって振り返ってみると、自分がアホみたいに思えた。何をやっているんだろう、あたしは。シンプルな世界が理想なんじゃなかったの? シンプルに、好きって言えばよかっただけじゃん。それでフられるか、恋人同士になれるか、答えはとてもシンプルだ。どうしてわざわざ自分から複雑にしてしまったのだろう? わかっていた。あたしは確実に恋人同士になれる答えしか、欲しくなかったのだ。
嫌われてしまったのだろうか? アホなあたしは、何てことをしまったんだ。自分を土の中に埋めてしまいたい。出て来られないようにしてやりたい。明日学校に行くのがとても怖かった。でもいつものように睡魔は訪れ、朝日は昇り、今日がやって来て、あたしは何もなかったように自転車に乗り、学校へ行かねばならないのだった。
ハルちゃんは先に来て、もう席に着いていた。
スマホをいじって何かを見ている。
「お、おはよう……」
あたしがおそるおそる声をかけると、
「あ。絢音、おはよー」
いつもの笑顔を上げてくれた。
自分の顔が明るくなるのがわかった。
でも挨拶を交わしただけで、会話がなかった。
後ろでスマホを操作する気配を感じ取りながら、あたしはかける言葉を探しまくった。
なんにも出て来なかった。
シャーペンのお尻で背中を突っつかれた。
振り向くとハルちゃんは、机に両腕をべったり寝かせて、そこに顎を乗せながら、とろんとした目で、あたしに言った。
「ね。今度、またいつか、2人っきりで動物園、行かない?」
来た!!!
これ、脈ありってやつじゃない!!?
泣くほどいじめてあげてよかった!!!
17
次の日曜日、あたしは寝坊した。
ゆっくり顔を洗って、朝ごはんを適当に食べて、面倒くさいけど適当な外着に着替えて、小此木くんの待つ動物園へ向かった。
バスを降りると、彼が嬉しそうに駆けて来るのが見えた。
制服の白シャツに制服の黒ズボン姿。……遠足かよ。
「今日はいっぱい楽しもうな」
小此木くんがそう言うので微笑んでうなずいてあげたが、今日は下見だ。今度ハルちゃんと一緒に来る時、案内してあげるための。
「遅れてごめんね」
あたしは一応謝った、人として。
「バス代420円もかかっちゃったぁ。払ってくれる?」
今日はお金は1円も使わない予定だ。お小遣いがなくなったら困る。
あたしの住む町の近くの動物園だからパンダとかはいない。ライオンも、キリンも、象さんもいなかった。
あまり期待してなかったけど、動物がいっぱいいるというだけであたしは楽しくなった。
一番の売りはアルパカだ。
あとはポニー、ヤギ、ヒツジ、シカ、カピバラ、カメ、ウサギ、犬、猫……。あとは珍しい鳥がたくさんいた。
「かわいい〜」
柵越しにヤギさんに紙をあげるあたしの横顔をじーっと見つめているやつの気配には気づいていた。
「おまえのほうがかわいいよ」
ぞわっと背中が震えたのを隠しながら、あたしは微笑んでヤギさんに言った。
「ありがとう」
東屋のテーブルに距離を置いて座り、彼のおごりのジュースを飲みながら、2人で会話をした。
「ねえ、ハルちゃんて、昔はどんな子だったの?」
「今と基本そう変わんねぇよ。元気で、明るくて、存在感あるけど一匹狼みたいな」
「ハルちゃんって兄弟いるの?」
「1人っ子。だから俺のこと弟みたいにいつも従えて……」
「ハルちゃんのママって、やっぱり綺麗なひと?」
「なんでハルカの話ばっかなんだよ!? ……俺を見てくれよ!」
「あ、ごめん。……じゃあ、ハルちゃんの小さい頃って……」
「なあ」
「はい?」
「おまえ、本当に俺のこと、好きか?」
あたしは無言で微笑み、うなずくような動きをしてみせた。
「断れない性格だから、流されて付き合ってる形になっちゃったんじゃねーのか?」
「そんなことないよ?」
「おまえ、何考えてんのかよくわからん不思議ちゃんだけど……」
小此木くんは言った。
「絶対天使だと思うんだわ。なんて言うか、おまえの背中に羽根が見えたんだ。俺のカンに間違いはない」
顔が真っ赤っ赤だった。
「……一目惚れだったんだよ」
飲んだジュースが逆流しかけるのを必死でこらえた。
「とりあえず……、俺らスマホ持ってない同士だろ? でも俺はパソコンを、おまえはタブレットを持っている」
その通りだった。友達が1人もいなかったあたしは携帯電話を持つ必要がなく、両親とも電話なんてすることがないので、インターネットに繋がるタブレットさえあれば充分だったのだ。
小此木くんは言った。
「メルアド教えろ」
あたしは即答した。
「持ってない」
「じゃあ……、何? LINE? 俺、やったことないからよく知らんのだが……。そういうのあったら何でもいいから教えてくれ」
「なんにもやってない」
「じゃあ、開設しろ」
「タブレット持って来てないし」
「くっ……! じゃあ……」
小此木くんはきょろきょろと辺りを見回してから、言った。
「キスさせてくれ」
あたしはあわやジュースを思いっきり噴くところだった。
「ハルカと練習までしてくれたんだろ?」
小此木くんはいやらしいものを頭に思い描いているような目で、
「いいんだろ? やらせろ」
あたしに襲いかかって来た。




