ファースト・キス
10
「素直じゃないなぁ、こもこもは」
あたしの部屋で、ベースを爪弾きながら、井伊さんが言った。
「興味があるってことは、そのひとを知りたいってことだろ? 女が男のことを知りたいって思うのってそれ、恋じゃなかったら何なの?」
なかなか理解してもらえない。こんなのは特殊なんだろうか。あたしがおかしいのだろうか。自分と似たところがあるのに、一部がとても違っている。あたしは自分の本当に好きなものを人前でおおっぴらに見せられないのに、小此木くんは堂々と現代詩の本なんかを人前で読んでいる。それがあたしは羨ましかったのかもしれない。
とととにかく恋愛とかじゃなく、自分と似た人に対する単なる興味なのだ。単なる興味であって恋とかではないのだ。トカゲがイグアナを見て興味をもつみたいなものなのだ。あたしはとてもたどたどしくそんなようなことを井伊さんに説明した。すると彼女は言った。
「だから恋なんだよ、それ。あんたが恋だと自分でわかってないだけ」
「ちっがーーーう!」
また井伊さんのカルピスソーダが減っていなかった。あたしはもうほとんど飲み干してるのに、彼女のコップにはまだ半分以上ある。ジュースを飲むよりベースを鳴らしている時間のほうが長い。お菓子はそこそこ食べてくれてるのに。あたしはきょとんとしながら、聞いてみた。
「喉、乾いてないの?」
すると彼女はすまなさそうに笑って、言ったのだった。
「ごめん。これ、好きじゃないんだ」
アルミのでっかい金色の鍋が落ちて来て、あたしの頭でがーーん!と鳴った。
カルピスソーダが嫌いなひとがこの世に存在するなんて想像もしてなかった。
あたしは急いで井伊さんのコップを手に取ると、
「ごめん! お茶、持って来るね」
そう言って、少しコップの飲み口を見つめた。
井伊さんの唇の形がそこに残っている。この前、井伊さんが帰ってから自分がしたことを思い出し、強く意識した。
この間、また遊びに来てくれることを約束して彼女が帰って行ったあと、自分が何をしたか。たっぷり残されたカルピスソーダをじっと見つめた。あたしの体は震えていた。露のたっぷりついたそのコップを手に持つと、井伊さんの唇の形を確認した。震えながら、そこに口をつけた。ぴったり同じところに唇をつけた。そしてカルピスソーダを流し込みながら、むしろコップのほうを味わっていた。目を閉じて、彼女の顔を想像しながら。
「ごめんね」
井伊さんの言葉ではっとして、顔を上げた。
「好き・嫌い多いやつでさ」
あたしが何も言わずにコップをじっと見つめているので、何か誤解させてしまったのかもしれなかった。自分のことを責めるみたいな、すまなさそうな顔でベースを弾く自分の右手を見つめている。
「嫌いが多いひとは特別好きも多いんだよ」
あたしの言葉に井伊さんが顔を上げた。意味がわからないというようにこちらを見て来る。
「あの……ね。好き・嫌いがないひとは、惰性でいつもおんなじもの口にしてるだけなの。嫌いがない代わりに、特別好きなものも、ないの」
「なんだそりゃ」
井伊さんが笑った。
「だからハ(ルちゃん)……井伊さんは、嫌いなものが多い代わりに、すっごく好きなものも多いんだよ? だから……」
「おい」
井伊さんの顔つきが一瞬で変わった。睨みつけるみたいな顔で、
「僕のことわかったみたいなこと言うな」
「あっ……!」
あたしは体が縮こまった。
「ごっ……、ごめんな……さ……!」
「ごめん」
井伊さんはまたベースを弾きはじめると、笑顔を作って、
「お茶、持って来てよ。ごめんね」
台所で麦茶をコップに注ぎながら、ぽかぽか自分の頭を叩いた。そうだよ。あたしだって、他人から自分のことをわかったみたいな言い方されたら不快じゃん! 口数の普段少ないやつが口を開くと失言ばかりするって、本当だ! あたしは黙っていよう。井伊さんの話をただ「ウン、ウン」とうなずいて聞くだけのなんとか人形でいい。そう心に誓いながら、お茶を持って部屋に戻った。
「さっき、ごめんね」
井伊さんはミニテーブルに置かれる麦茶を見ながら、言った。
「僕、怖かったろ?」
あたしはぶんぶんぶんと首を横に振った。
「あたしこそ……。ごめんなさい」
しばらく2人で黙ってお菓子をつまみ、飲み物を飲んだ。
井伊さんが麦茶を飲み干した。
「あ。入れて来るね」
あたしがそう言って立ち上がろうとすると、
「ねえ、こもこも」
井伊さんが突然へんなことを言い出した。
「キスしたこと、ある?」
「え。ないよ」
あたしは正直に答えた。
「ママとか、ペットとかぐらい」
「ココノギとする時、それじゃ困るよ。ガチガチに緊張して、口をおおきく開けたりされたら、ココノギも困ると思う」
「……しないし」
「恋人同士になったんだろ? するのがふつうだ」
「しないっ!」
あたしは怒ったみたいに立ち上がった。
「だからさ」
井伊さんもあたしを追うように、立ち上がった。
「練習しとけよ」
「練習?」
「僕でさ」
井伊さんがあたしに近づいて来る。ふざけたような、でもすごく優しい笑顔で。
あたしは呼吸が早くなり、彼女に聞いた。
「練習って……何? どうするの?」
「本当にはしないよ。する真似だけ。慣れときゃ本番の時緊張しないかもだろ?」
井伊さんの顔が近づいて来た。
あたしは泣き顔で笑いながら、抵抗をしてみせた。
「あっ……! ふざけすぎっ……! こんなの……。あっ……!」
「好きだよ、絢音」
そう言いながら急接近され、あたしは思わず目を閉じた。
井伊さんの唇が、あたしの唇に、触れた。
やわらかさを押しつけられるようなキスに、あたしは体が固まり、言葉も声も失った。頭は何も考えていなかった。ただ、感じていた。血がものすごい早さで体中を駆け巡り、手は知らないうちに自分の胸を赤く傷つくまでに掴んでいた。肩に触れていた井伊さんの手が首を通って、あたしの真っ赤な耳を触る。あたしは震えて唇を差し出すばっかりで、何もできなかった。
押し当てていた唇を離すと、井伊さんはくすっと笑った。
「固いよ。固すぎ。女同士だろ」
あたしはなんとか目を開けた。
井伊さんの顔をうっとりと見た。
ゴムを横に伸ばしたみたいな唇を見つめた。
「じゃ、もう一回」
そう言われて、あたしの体が喜びでのけぞった。




