告白
9
あたしは他人のことを名前で呼べない。そもそも自分から話しかけることが滅多にないが、何か必要があって話しかけなければいけない時は「あの」「ちょっと」で呼びかける。あたしの前では誰でもが『あのさん』か『ちょっとくん』になる。名前なんかで呼びかけたら、まるで自分なんかがその相手と親しいみたいで、失礼な気がしてしまうのだろう。
井伊さんは聞いて来なかった。あたしが小此木くんとどんな話をしていたのかを。興味ないんだろうか。それともあたしが抜けがけしたと思って怒ってるんだろうか。英語の小テスト中だった。あたしは解き終えて暇を持て余していた。おそるおそる振り向いてみると井伊さんは黙々と問題を解いている。難しそうな顔が怒っているように見えた。
小テストが終わり、後ろの人から答案用紙が渡って来る。あたしは井伊さんからそれを受け取り、前の人に回すと、すぐに振り向いて、勢いで「あの」と声をかけた。井伊さんはうつむいて教科書をチェックしていて、気づかなかった。もう一回「あ、あのっ」と話しかけたけど無反応。自分に言われてるとは思わないのか、それともやっぱり怒ってるのか。
「いっ、井伊さん」
心臓がばくばくしたけど、そう呼びかけるしかなかった。
勇気を振り絞ったあたしに、井伊さんはようやくぴくりと反応してくれて、顔を上げた。
「んー何?」
嬉しそうな笑顔だった。
「『ハルちゃん』でいいよ?」
あたしはその笑顔を見て安心しながら、
「あっ、あの……。さっきあたしが……小此木くんと話してたの、見てたでしょ? 何話してたか聞かないの?」
小此木くんの名前を出した。本人がいないところでは名前で呼べるのだ。
「話しかけてくれるの待ってたんだ」
意地悪そうにニヤニヤする。
「どうなの? 仲良くなった? なんか困った顔で僕に助けを求めてるように見えたけど」
「な、仲良くなっちゃダメでしょ」
あたしはオロオロ言った。
「あ、あの……。ハ(ルちゃ)……井伊さんも狙ってるひとなのに」
「あー、あれ? 噓噓」
「噓噓……?」
「うん。こもこもを焦らすために言った噓だよ。本当は僕、ココノギのことなんか何とも思ってないから」
理解の鈍いあたしは口をパクパクさせて考えた。どうやら井伊さんはあたしを焦らせて、小此木くんに告白でもさせようとしていたらしい。そんなことするわけないのに。本当にあたしが彼のことを好きだったとしても、井伊さんなんかがライバルとして入り込んで来たら、むしろ速攻で後ろに引っ込んで、譲るだけなのに。
「そういうことだからさ、僕に遠慮なんかしないでグイグイ行きなよ。応援するからさ」
「違ーうよ!」
あたしは全力で否定した。
「あれはただのイグアナなんだってば!」
そう言いながら1番後ろの席の小此木くんのほうを見ると、彼はじーっとこっちを見つめていて、あたしが見るとサッと視線をそらした。
キモかった。
化学の授業が終わり、理科室から戻ってみると、机の中から何かが覗いていた。まるで「今すぐ読め」みたいに、手紙らしきものが顔を出している。嫌な予感がした。井伊さんとは一緒に廊下を歩いていたので彼女ではない。そうなると……。
丁寧に畳んであるその手紙を開いてみると、鉛筆の奇麗な文字で、一言書いてあった。
放課後、体育館の裏まで来てください
小此木
どうしよう。
どうしよう。
スルーして帰っちゃおうか。
なんか怖いし面倒くさい。
そう思っていると、後ろから井伊さんに盗み読まれた。
「告白だな、これは」
面白がるように言われた。
「You、行っちゃいなよ」
井伊さんに付き添われて体育館へ行き、外壁を回って裏をおそるおそる覗くと、小此木くんが何かの本を片手に、奇麗な姿勢で立っていた。
本を持って待たれているのがすごく嫌だった。
「よし、行け!」
井伊さんは完全に面白がっている。
「告白されて来い!」
あたしは聞いた。
「なんて言って断ったらいい?」
「なんで断るんだよ。『はい、喜んで』って言うんだよ!」
「あうう……」
「ほら行け」
どん!と背中を押され、陰から走り出た。
あたしに気づいた小此木くんは嬉しそうな顔を赤らめた。
仕方なくあたしは彼のほうへ歩き出す。
「呼び出したりしてすまなかったな」
そう言って小此木くんは本を持ち上げ、その角で頭を掻いた。
やっぱり本を読ませる気だ。「一緒に現代詩を鑑賞しよう」とか言い出す気だ。
「あの、なんでしょう……」
あたしは全力でここから逃げる方法を探した。
「用事あるんで……手早くお願いします」
「よし、手短に言おう」
小此木くんは言った。
「菰原絢音さん、前から好きでした。付き合ってください」
まじかよ!
本当にそっちかよ!
「ごめんなさい」
そう言ってぺこりと頭を下げればいいだけなのに、それが言えなかった。
あたしは「あう、あう」としばらくオロオロし、そのせいで小此木くんに隙を与えてしまった。
「と、いうより貴様はこの俺と付き合わなければならない」
態度が変わった。偉そうに上から見下ろして来る。
「わかるだろう? 俺たちは仲間だ。貴様はこの申し出を断れないはずだ」
「な、仲間?」
「現代詩に興味があると言ったろう?」
「あ、あれは……!」
嘘でした、なんて言えなかった。
「興味があるからにはそれを教えられるこの俺とそういう関係になったほうがいい。それに俺が貴様のことを『いいな』と前々から思っていたのは本当だ」
小此木くんは頬を赤らめながら、尊大な態度で言った。
「命令する。俺と付き合え」
「あ、あの……!」
あたしは思わず聞いていた。
「前々から……って……あたしなんかのどこが……?」
「顔だ」
「か……かお……」
「告白の訂正をする」
小此木くんはビシッとJOJO立ちみたいなポーズを決めると、言った。
「菰原絢音! 以前から貴様のことが好きだった! 俺と付き合え! これは告白ではなく命令だ! うなずけ!」
あたしは逃げようとしたけど返事をしないうちに逃げ出したら相手に失礼な気がして、その場でオロオロした。
助けを求めて井伊さんのほうを見ると、拳を振り上げて「いけいけ!」みたいなアクションをしている。
あたしは答えた。
「は、はい」
「おお? いんだな!?」
小此木くんが喜んだ。
命令なんて卑怯だ。断ることが大の苦手のあたしに命令するなんて。
まぁ、付き合えばすぐにあたしなんかの退屈さに気づいて、すぐに別れ話を切り出されるだろう。
いや、それじゃなんかいやだ。
あたしなんかにもプライドはある。
そうだ。クリーニングオフだっけ。一応付き合ってみて、彼がしつこく現代詩を押しつけてくれば、あたしだって勢いで「やっぱり別れましょう」を口にできるはずだ。よさそうな商品だから買ってみたけど、いい商品だったけど、どうしても我慢できないところがあるので、返品します、クリーニングオフします、みたいに。そんな感じの作戦を思いついた時、小此木くんが言った。
「じゃ、絢音。これから俺のことは『凛と呼べ』
「は? は!?」
『小此木くん』とすらまだ呼んだことがないうちに、すごいハードルの高いことを要求された。




