小此木くん
8
「ふはははは! かかったな!」
そう言いながらロッカーの中から突然現れ、こちらを指差す小此木くんに、あたしは罠にかかった子鹿の気持ちを理解した。心臓がばくばく跳ねる。逃げようとしても足が動かない。なんだこれ意味がわからない。
机の上に置かれていたその本は罠だった。
あたしに手にとって、読ませるために、わざとそこに置かれていたのだ。
まるで『これ絶対に読んじゃダメなやつ』とでもいうように。
なんか誰かに似ていた。
「菰原絢音!」
小此木くんがその低い声で、あたしをフルネームで呼んだ。
「貴様、前にも俺が机の上に置いていた『現代詩全集』を興味深げに見ていたろう?」
「あううっ……!」
あたしは今度は現場を押さえられた空き巣の気持ちを理解した。
「貴様、さては現代詩に興味があるな? そうだろう?」
詰め寄って来る小此木くんに、あたしは全力で首を横に振った。ぶんぶんぶんと振った。
「では、これから興味を持ちたいのだな? 俺に現代詩の魅力を教えてほしいのだろう? そうだろう? ふふふふふふふ」
小此木くんの顔が目の前に迫って来た。あたしはその髪型に目を奪われる。この毛先の方向性はどこかで見たことがある。そうだ、モンブランだ。モンブランのクリームのようにそれは全部が横向きに流れている。ターバンというよりはモンブランだ。どうしてこんなへんな髪型にしているのだろう。どうやったらこんなへんな髪型にセットできるのだろう。現代詩と関係があるのだろうか。それとも天然なんだろうか。
あたしがパニック状態でそんなことを考えていると、小此木くんは本をあたしの手から奪い取り、それを開いて突きつけて来た。
「貴様、さっきこれを読みながら、食い入るように文字を見つめていたな? もしかして引き込まれそうになっていたのか?」
あたしはまたぶんぶんぶんと首を横に振りながら、逃げようとした。ようやく足が動くようになったのを利用して。
「待て!」
小此木くんに手首をがしっと捕まえられた。
「面白そうだと思ったんじゃないのか? だったら教えてやる! 面白そうだと思ったんだろ?」
鋭い目つきが泣きそうに見えた。
違う! そんなへんなもの読んでたまるか! 離せ! あたしはふつうだから、現代詩なんか読まないの! 読みたくもないの! 知りたくもない、そんなクソみたいな、気取った、頭のいいひとたちだけが高い塔の上に集まって「これはまことによいものじゃ」「まるでシンメトリーで鏡の天空に浮かぶ白き心臓を内蔵するちぢかまった蛇のような高尚さじゃ」「愚民どもはこれがわからんとはのう」みたいにぶつぶつ言ってる輪の中に加わりたくない!
そう言いたかった。
でも、あたしの口から出た言葉は、
「う……、うん」
こくりとうなずいて、
「面白そう……だと、思う」
流されたわけじゃない。
あの時を思い出したのだ。
井伊さんがあたしのマンガを読んでくれている後ろで、ドキドキしながら感想を待っていた、あの時の自分を。
もしもあの時、あたしのマンガを読み終わった井伊さんが、そんな否定的な言葉を口にしていたら、あたしはどれだけ傷ついただろう。松浦なんとかの詩集『ウサギのダンス』は、小此木くんが書いたものではないけれど、彼の大好きな本なのだ。きっと、あたしにとってのマリアと同じなのだ。あたしにとってのマリアは、あたしが描いたマンガと同等か、それ以上の存在だ。
きっと、傷つく。「ちょっと……遠慮しとく」とか「また今度教えてね」とか答えて逃げることもできたとは思う。でも、井伊さんがあの時もしもマリアのCDをろくに聴いてくれもせずに止めていたら、あたしは傷ついていたと思う。人の好みはそれぞれだけど、「なんでこんなもの聴くの?」「わからん」と最初に井伊さんに言われた時、あたしは自分が悪口を言われて傷ついたように、涙が出かけた。
「気がしれない」みたいなこと言ったら、小此木くんが地獄の底へ落ちて行くような気がした。あたしが落とすのだ。彼はあたしを恨めしそうな顔で見ながら、火に焼かれるだろう。鬼に取り囲まれていじめられるかもしれない。そんなことはさせない!
「うん。面白そうだなって思ったから……。勝手に読んで、ごめんなさい」
潤んだ目をキラキラさせて「本当か!?」と聞く小此木くんに、あたしはそう答えていた。
なんだか抱きつかれそうな気配がしたので、じわじわと後ずさりながら。
「よし! じゃあ教えてやるぞ!」
小此木くんが張り切りはじめた。
「ここの○○○がいいんだ。これはな、●●●の暗喩をさらに暗喩で包み、コノテーション以前の幼児的記憶さえ突き破り、シニフィアンとシニフィエの関係性はこの場においては解体され、まるでウサギがダンスを踊るその自由さは、しかし水の高楼が触れようとすればたちまち崩れ落ちるように……」
あたしはそれを聞かされながら、涙目になって井伊さんのほうを見た。
井伊さんはこちらを見ていた。
意地悪そうな笑顔で、口が「がんばれ」の形で動いた。
いや『イグアナってどんな動物だろう』みたいな興味しかなかったんだって、本当に。興味もってしまったことすら間違いだったって今は後悔してるとこなんだって。いらない。これ、いらない。あたし、井伊さんのライバルやめる。あげる。井伊さんにあげる、これ。いやいや、やっぱりあげない。井伊さんにこれは似合わなすぎるし、これに井伊さんはもったいなすぎる。
そう思いながら、次の授業のチャイム早くが鳴ってくれるのを心待ちにしながら、あたしは小此木くんの目を横から見た。
彼は目つきがすごく悪い。目が悪いくせにメガネもコンタクトもしていない人みたいに、いつも睨むような目を自然にしている。いつもだ。それは知っていた。
その目が夢を語る子供みたいに今、キラキラ輝いていた。
間近で初めて見るから印象が違うのだろうか。綺麗な顔をしているとは思っていたけど、目が怖いし何を考えているかもよくわからないので、イグアナだとしか思っていなかった。
長いまつ毛に囲まれてころころと動くその瞳は、とても綺麗だった。
彼の語る現代詩よりもそちらのほうがずっと綺麗で、いつの間にかあたしは思わず見とれてしまっていた。
次の授業のチャイムがあっという間に鳴った。




