第九十五手「在りし日の鼓動と重なる影」
蛯名家に生まれた者は皆、その生涯をプロ棋士の誕生に注がなければならない。
男であれば生まれながらに将棋を覚え込まされ、女であればプロに値する男を他方から選別する必要があった。
そして蛯名萌香として生まれたアタシは、その血筋のせいもあってか将棋がとても強かった。
大した勉強をしなくとも同学年の者達を一蹴し、大会は小学生の部に初出場で優勝を飾るという快挙を成し遂げ、蛯名家の誇りになれる人生を歩んできた。
しかし、肝心のものは見当たらない。
将棋の競技人口は男性が多く、周りに選別の対象となる異性は多い。
にもかかわらず、アタシの目から見た彼らは、総じて未来の才能を育むような潜在能力を秘めていなかった。
ある男は地区大会を連覇するほどの強豪だった。
しかし、その瞳の視線は将棋だけに向けられていない。
ある男は県大会を蹂躙するほどの天才だった。
しかし、将棋を遊びとしか思っていないその性根はきっと将来を破綻させる。
ある男は全国大会を制覇するほどの大物だった。
しかし、彼の地位はただの努力の結果でしかなく、未来の血筋には影響を及ぼさない。
この目で見てきた者達は皆、何らかの欠点を抱えながら大会を勝ってきた。
勝者とは強者であることに違いはない。しかし、強者であってもその血筋に将棋の才能が宿って無ければ意味がなかった。
──そんなアタシにも、才能の塊と呼べる人物が一人だけいた。
薫風を背に受け佇む勝負師。胡乱な雰囲気を漂わせながらも確かな結果だけを残し続けた棋界の英雄。
──『玖水棋士 竜人』八段。
光の旋風に巻き込まれて消えていった、アタシが唯一尊敬する将棋棋士だった。
玖水棋士八段の実績は非才と言われている。
大した勝率もなく、タイトル戦での優勝歴はゼロ。格下の棋士にも負けるような平凡極まりない戦績を残した男。
それでいながら、彼は非凡な人間だと周りから畏怖の念を抱かれていた。
それは何故か?
彼の戦いは常に進化を求めていた。常に新しい定跡を生み出していた。
固定された棋界のレーティングに囚われず、自らの開進を示すため決して敗北に恐れを抱かない。
どれだけ重要な対局であっても、どれだけ強い相手であっても、玖水棋士八段は過去に指した戦法を一度たりとも再現して使うことがなかった。
『将棋の有限性に限りはなく、我々人間が日々開拓しなければ有限の証明になるはずもない。』
自らが残した著書の言葉通り、玖水棋士八段はただひたすらに開進をし続けるプロ棋士だった。
稀代の英雄、時代の先駆者。未来永劫訪れないであろう彼の偉業に多くの人が尊敬のまなざしを向けた。
手に迷いがない。指し手に陰りがない。戦うたびに新手が繰り出されるその光景は、どんなに強い棋士であっても恐怖を抱かざるを得ないもの。
中でも玖水棋士八段の指した『横歩取り』は鬼のような強さを発揮し、勝率8割を超える棋界のスターを完膚なきまでに叩きのめした事件は今でも伝説になっている。
アタシはそんな彼に分不相応ながらも敬意を抱いた。
これだけの将棋指しがいながら、名誉のためでもなく、金銭のためでもなく、将棋のために才能を使い続けた男の対局する姿はあまりにも輝いて映った。
しかし相手は天上の存在プロ棋士。一介のアマチュアが婚約相手に選べるような賜物ではない。
憧れは偶像として置き換わり、そんな偶像も気づけば粉々に崩れ果てた。見過ぎた夢が悪夢に変わった瞬間だった。
時を経て13歳になったアタシは、近々開催される『黄龍戦』地区大会の棋譜を流し読みしていた。
どれもこれもつまらない一戦が繰り広げられている。所詮は地区大会の場、こんなちっぽけな大会に期待なんてする方がおかしい。
……そう思っていた。
しかし、西地区で行われた代表選抜の決勝戦。あの川内副会長が出ていたことに多少の驚きはしたものの、その対戦相手の棋譜に更なる驚愕を余儀なくされた。
その男の棋譜は、棋風は──あの玖水棋士八段にそっくりだったのだ。
アタシは思わず立ち上がった。震えた手でその棋譜の書かれた紙を握りしめた。
これまで数えきれないほど人の棋譜を見てきた自分だからこそ分かる。この棋風は凡人に指せるものじゃない。非凡で、勝負師で、何より進化を求めて歩む将棋の才能が感じられる。
アタシはようやく見つけたと奮起し、その地区で一番直近に開催されるという西地区交流戦に申し込みを入れた。
確かめなければ。あの玖水棋士竜人に及ぶ人物がいるかもしれないという事実を、この目で確かめなければ。
そして、可能ならアタシのものに──。
◇◇◇
ハッキリ言って、期待外れだった。
西地区交流戦へと出場したアタシは、運よく2回戦で目的の人物である天竜一輝との戦いが決まった。
しかし、その前に行われた1回戦での彼の棋風はあまりにもひどかった。
凡夫極まりない指し手の連続。辣腕の欠片もない鈍足な将棋。彼があの時切れ者だった理由は、川内副会長と指した将棋が『横歩取り』だったからなのだろうか。
(だとしたらとんだ期待外れね)
景色は色褪せることなく局面を映し出す。
完璧な盤面。完璧な構図。完璧な進行。
不安要素は何ひとつない。負ける要素は何ひとつない。ただ真っすぐと指し続け、自分を信じて指し続け、定跡をなぞるように勝てばいい。
目の前の男はたかが地区大会を勝っただけの新人だ。負けるはずがない。負けるわけがない。
──なのに、どこか違和感を感じる。圧倒的優勢なのに、変な胸騒ぎがする。
何か、先程から触れてはいけない何かを刺激し続けているような気がする。
△6三銀、▲7五歩、△4二玉、▲1七桂。
守りに使うはずの桂馬を跳ねて攻勢を狙う。筋違い角の常套手段。下手に守りを固めて相手の飛車の打ち込みを警戒するくらいなら、速攻をかけて潰す。
それが最善策だ。
△5四銀、▲2五桂。
盤面は如何なる瑕疵も許さぬ完璧な秩序を誇り、指し手は精巧な機械の歯車が噛み合うかのように着実に進んでいく。
同時に天竜一輝の顔が下がり始め、ついにはその瞳すら髪の影に隠れて見えなくなった。
(効いてるわね──。あとはこのまま押し切るだけよ)
不安の影は見当たらず、勝敗の予感も明確になりつつある。形勢は悪くない、実力差も確かにある。天秤も間違いなく勝利へと傾いている。
しかし、その完璧さの中に漂う異質な違和感だけが、いつまでも心の中に取り残されていた。
『後悔することになるぞ、蛯名萌香』
頭の中で反芻するその言葉に、真偽を分かつ虚構の鳥が羽ばたいている。
僅かな疑念が尾を引いて残っている。違和感の正体に勘付き始めている。
(……後悔なんて、するわけがないわ)
それでも、この勝負の結果は変わらない。変わるはずがない。
この対局に、後悔の種はひとつもないのだから。
△2四歩。
阿吽の呼吸が破られる。道理を外れた列車は火花を散らして進もうとする。
攻めているのはこちらなのに、どうしてその攻め駒を攻めることができるのか。
(そんな手がこのアタシに通用すると思う?)
天竜の正気を疑う手に思考が加速する。
既視感だ。さきほども似たような手をこの男は放っていた。相手を誘うような独善的な手。まるで指してこいと言わんばかりの一手。
将棋には常に速度が求められる。最短手数で囲いを作り、最短手数で攻めの形を形成し、最短手数で相手の玉を寄せる。
こんな、手番を渡して相手にパスをするような傲慢な手が通るわけがない。
(所詮は級位者から成り上がったばかりのお調子者ね)
桂馬は元々端に飛び掛かるために跳ねたもの。それを歩兵如きが追うなんて渡りに船だ。一手無駄に使ってくれたおかげで端攻めが成功する。
▲1四歩。
崩れた拮抗に重荷を乗せてさらに押しつぶす。
「……」
天竜の顔色は変わらない。
しかし、自分が犯した失敗で悔やんでいるのが手に取るように分かる。
△2五歩、▲1三歩成、△同香、▲同香、△同桂、▲1二角成。
端の攻防は一挙手一投足に気を配らなければならない。どれが正しくどれが間違っているかを瞬時に計算し判断できる人間でなければ、端攻めをすることなどできない。
(アタシはこの『筋違い角』で数えきれないほど端攻めを行ってきた。囲いもまともにできていないこの状況で端が突破されたこの現状、アタシの優勢は絶対に覆らない)
勝利を確信した表情で天竜に視線を向ける。
天竜は盤上を見たままずっと思考に耽っており、こちらには見向きもしない。
△2六歩。
そうして放たれた一手は、あまりにも軽い一手だった。
「……は?」
まただ。また既視感を感じる。
このふわっとした軽い一手、まるで意味を感じられない凡愚の手。危機意識が無くなっているんじゃないかと思うほどの軽い突き。
──なぜか寒気がする。
「……アンタ、真面目に指してるの?」
そんな言葉を思わず口走った。
それを聞いた天竜は静かに顔を上げ、こちらを睨むような目で反論した。
「……俺が将棋を真面目に指さなかった時なんて、生涯で一度もない」
重い意志が乗せられたような言葉で、そう返された。
「あっそ……!」
対するアタシも勢い付けて盤上の駒を奪い取る。
▲1三馬、△2七歩成、▲2四馬、△3三銀、▲同馬、△同金、▲2七銀。
互いの駒が交互にバラされていき、盤面は整頓されたようにスッキリした展開に移り変わる。
持ち駒はほとんど互角。銀と飛車の交換が入っていて僅かに先手不利だが、攻めの手数が圧倒的に多いのも先手側。
何より後手は盤上の飛車が死んでいる。居飛車でありながら飛車先の歩も突けず、振り飛車のように縦横無尽に移動することもできない。完全に閉じ込められた形になっている。
それはまるで飛車落ちのハンデを常に背負っているようなもの。形勢的に見れば大きな差が生まれていることは明白だった。
△4五角打、▲3八銀、△2六桂打。
新進気鋭の抜刀術が懐から放たれる。余念もなく繰り出されるその一手に一瞬の酩酊、あまりにも合理的過ぎてあくびが出る。
(フッ、ぬるいわね──!)
▲3六香打、△3五歩打、▲同香、△3四歩打、▲2五桂打。
猛攻を続ける天竜を正面から受け流す。受け流しながら切り返す。縺れあう戦場の糸を細かく紐解き、霧に隠れた思考の全貌を暴き出していく。
「……!」
こちらが反撃に出たタイミングで天竜は何かに勘付いた反応を見せる。
だが、もう遅い──。
△2三金、▲2四歩打。
金の正面に歩を叩いて反転攻勢に出る。取れば▲3三角から王手金取りと一気に寄せ形になる。
(ダンスを踊らせてあげるわ……!)
視座を切り替えて軌跡を描く。
(天竜一輝、アンタの思考には"賭け"という選択肢がない。これまでのアンタの棋譜を全て見てきたけれど、そのどれもが安全策に固執した勝利だった)
そう、彼の将棋には運の介在がなかった。自らが常に戦場を選択し、自らの意思で最後まで戦い抜く。
それが自分の理想とする棋士像、勝負師としての矜持なのだろう。
(でも残念ね。今回はその思考が命取りになるのよ)
△2二金、▲1一角打。
固執した思考は判断能力を鈍らせ、過剰な自信は形勢判断を瓦解させる。
勝負師なんておこがましい。それは余りある思考の全てを嵐のように廻転させてようやくその境地にたどり着けるものだ。
一端の将棋指しが倣っていいものじゃない。
△3二金、▲2三歩成。
金が踊る。ダンスのように踊る。優雅な翻弄が小さな四角形で巻き起こる。
歩を犠牲に四方八方から動きを制限された金は導かれるように地獄へ向かう。天竜一輝はその小さな手のひらの上でダンスを踊るしかない。
△同金、▲2四歩打。
ぐるっと一周して辿り着いた先には同じ景色が待ち受ける。しかし、同じ場所にたどり着いたはずの金は逃げる場所を失っている。
──"ダンスの歩"。
金が斜め後ろに下がれない弱点を突いた錯覚を生み出す手筋のひとつ。将棋の基礎となる"金は斜めに誘え"を利用して元の位置に戻れなくした簡易的な牢獄である。
(これでアンタの金は死んだ。もう逃げることはできない。そしてアタシに一枚でも金が手に入ればアンタの玉は一気に寄せ形になる。こうなった以上、アンタに反撃する手番はもうやってこない)
確信した勝利から湧き出る嬉々とした感情を必死に抑え込み、冷笑的な薄笑いを浮かべる。
こうなることは初めから分かっていた。分かっていた差だ。
「……」
針を刺すような沈黙が続く。
荒唐無稽な策略を咎め、非凡な才覚に終止符が打たれる。期待と喪失の裏側にあるのは嬉々として燃やし尽くした理想の塊だけだ。
灰となった棋力のなれ果てを嘲笑うように、アタシは対局時計をもう一度叩く。
それを見た天竜の視線が、一瞬こちらを切り裂いたかのように鋭く光った。
「……!」
ぞわっとする悪寒が背筋を通り抜ける。
それは目の前の男から発せられるものではない。その手前、盤上から醸し出される異様な雰囲気。
(なに……? この感覚……)
将棋指し特有の見えないものに対する感性が働く。
多くの経験と天性の勘から導き出される"何か"への警戒心。
見落としはない。ミスもない。形勢は間違いなく優勢。──にもかかわらず、見えない"何か"が盤上の中で蠢いている。
それから3分間長考に入った天竜は、何かを小さく呟いた。
「────」
そう言って彼は自分の命に指を添えると、その命を斜め後ろへと引きずり戻した。
△5一玉。
「……えっ?」
既視感のある軽い手。
何にも掛けてない、雲のような軽い一手。
この大会の中で何度も目にしたその一手に、彼への失望感が高まる。
(……血迷ったのかしら?)
意味など感じられない彼の手を咎めるため、ノータイムで返そうと手が伸びる。
玉の逃亡は自らの劣勢を認めていることと同じ。そしてこと将棋において、自らの劣勢を認めることは敗着へと繋がる最悪の決断に他ならない。
(そんな手がまかり通るはずがないでしょ)
▲2三歩成。
手順に倣って旗幟鮮明な手を指す。
この激戦において攻守は常に表裏一体。例え逃亡する手だとしても、その一手の価値は変わらない。
──でも、違和感があった。
軽い一手。雲のように軽い一手。
黄龍戦で見た時の切れ味のある一手とは違う、まるで級位者のような魂の込められていない一手。
──本当に、そうだったのだうろか。
(なんで、さっきからそんな余裕の表情で……)
その軽い一手には見覚えがあった。
黄龍戦より前に行われていた前哨戦、西地区の地区大会で県の王者である龍牙と天竜がぶつかった時の棋風。
その時の龍牙が指していた棋風は、まるで意志など込められていない軽く薄っぺらい一手だった。
そしてその軽く薄っぺらい一手が、その瞬間における最善手だった。
『そうはいっても、案外最善手かもしれないわよ?』
舞蝶麗奈の言葉が脳裏に反響する。
(いや、まさか……)
不気味な感覚が全身を這いずり回る。
悪寒がする。ぞっとするような寒気が止まらない。
霧は軽く、濃霧のように白く包まれ、雲のように意味なく宙を漂う。
何か、決定的な間違いを犯しているような感覚が後を絶たない。
元の玉座に腰掛けて居玉となった天竜の陣形。
守りの駒は金しかなく、こちらの攻めも圧倒的な差を付けて通っている。
誰がどう見たってこちらが優勢だ。なのにさっきからその考えが炎のように揺らめているのは──。
「……っ!」
息を呑むような緊迫感の中、天竜は思考の途中で自分の駒に軽く指先を触れる。
それが歩、飛車、金の順番で触れられていき、最後に玉を掴んだ瞬間にアタシの思考回路は信じられないほどの打撃と鈍痛で卒倒した。
◇◇◇
「やめておいた方がいい」
「え?」
西地区交流戦に出場する前日、アタシはある男と会っていた。
「アレと戦うのはやめておいた方がいい」
伝説のプロ棋士、玖水棋士竜人の雰囲気を微かに漂わせるその男は、こちらの思惑を看破した上でそう告げた。
「天竜一輝を知っているの?」
「会ったことはないが、数年前に対局しているところを一度だけ見たことがある」
「数年前……? 彼が頭角を現したのは先日の黄龍戦からよ」
アマチュア界のピラミッド層は非常に堅く、成長速度が顕著な小中学生を除けば年月によって大きな変化が生まれることはない。
それは黄龍戦の地区大会を優勝した天竜一輝とて同じこと。
既に成人を迎えてしまっている彼は、才気ある他の学生層と比べて成長速度がある程度緩やかになってしまっている。
子供のような飛躍的な棋力の上昇はなく、僅かな期間で急激に強くなることはない。
だからアタシは、天竜一輝を上から見定めることができる。
「何も分かってないな」
しかし、その男はアタシの考えを真っ向から否定した。
「強さと言うのは刹那的な状況で生み出される力だ。弱い時もあれば強い時もある、決して同じ力を生み出し続けることはない」
そんな都合のいい設定があるはずない。
しかし、天上にたどり着いたその男の口から放たれる文言は、今まで出会ってきたどの人間よりも説得力があった。
「玖水棋士竜人は至上の棋士だ。後世にも決して現れることのない伝説となった棋士だろう。だが、あの人は自らの意思を未来ある者達へと託した。後世でその者達が自分を越えていく可能性に賭けたんだ。たった一つの『戦略』を遺してな」
「……何が言いたいのよ?」
一呼吸おいて、男は口にする。
「──【竜の横歩】」
「……!」
「天上天下唯我独尊、身を粉にしても迫ることのできない唯一の答え。その無比にも等しい『戦略』の名だ」
絶対を主とした男の口から、悔しそうにその言葉が漏れた。
「俺は玖水棋士竜人の一番弟子だ。生涯、後にも先にも玖水棋士竜人の寵愛を受けた者は俺だけになるだろう」
そう言って背を向けた男は、アタシに最後の言葉を残していった。
「……だが、玖水棋士竜人の意思を受け継いだ男がもう一人いる」
◇◇◇
速度が逆転する──。
「まさか、竜の──」
それが霧散した時に見えた怪物の目は、傲慢だった感情が弾き飛ばされるほどに強烈だった。
△6二玉。
盤上がただひとつの答えを映し出す。
"玉の早逃げ八手の得"とはよく言ったもの。二度も同じことをすればその差がハッキリと視界に映る。
(ウソ……)
違和感の正体──それは指し手に対する優劣ではなく、勝負に対する選別だった。
そう、それはまさしく『戦略』。この男の指し手からは戦法や戦術という枠組みから外れた明確な勝機──『戦略』が感じられた。
(こんなことが……)
目の前に座している青年から放たれる気迫は常軌を逸する。それはまごうことなき真価の風格。
外野から見ているだけでは決して分からない指し手の威圧感。
(こんな……)
『アレと──天竜一輝と戦うなら後悔することになるぞ、蛯名萌香』
(このアタシが、"形勢判断"を読み間違えたっていうの……?)
『強者が強者でいられるのは、自分より弱い者を相手にしている間だけだ』
頭の中でかつての男が放った言葉が反芻する。
今になってわかる。今さら気づいた。全部彼の言う通りだったと。
私は目を見開いたまま盤面を見つめて唖然とする。
局面が優勢? 守り駒に差がある? 勝敗は決した?
どこに、そんな差があるというのか。
こちらの攻め駒は全てスカされ、一切の攻めとしての機能を保っていない。
逆に天竜の攻め駒は依然としてこちらに当たっている。このまま対処しなければ一気に崩される。
あれほど明確に見えていたはずの差が、たった3手で覆った。
速度が、逆転したのだ。
(はは……なによ、それ……)
信じられない感覚に陥る。頭が混乱する。
あれだけ軽かったように思えた手は、今さら振り返ると鈍器で潰されたかのように重い一手に感じる。
その指し方は、まるで青峰龍牙の"自分を軽く見せる手"にそっくりだ。
既視感の正体はそれだった。違和感の正体はそれだった。
一手一手の指し手に重みがないから弱くなっていると思っていた。切れ味がないと思い込んでいた。
副会長との戦いより全然強い──。
全てを察してから見る盤上は絶望一色に染まって見える。
そんな中で、さきほど彼が呟いた言葉を今になって思い出す。
そうだ、確かコイツは小さな声で──。
「──読み切った」
そう呟いていた。
今頑張ってるやつ→https://kakuyomu.jp/works/16817330668051422146




