第九十四手「研ぎ澄まされていく思考」
『一輝君、君は──将棋が好きかい?』
頭の片隅から泡沫に乗ってふわりと消えていく凄惨な思い出。
もしかしたらそれは思い出なんて尊いものじゃなくて、もっと醜くくてくだらない記憶かもしれない。
見たくないものを見ずとも人生はまっすぐ生きられる。見たくないものを見て壊れてしまうくらいなら、目を逸らし続けてもいいんじゃないか。
少なくとも俺は、そう思って生きてきた。
前に一度だけ、麗奈に尋ねられたことがあった。
「そういえば、私師匠の過去を全然知らないわ。よかったら教えてくれない? 将棋を始めたきっかけとか、プロ棋士になりたい理由とかさ」
そんな麗奈の言葉に、俺は沈黙を貫いた。
「……そう、今のは失言だったわね。ごめんなさい」
「いや、麗奈が悪いわけじゃない。ただ俺が……まだ過去を清算していないから」
「……そっか。じゃあ、いつか話せる時がきたら教えてちょうだい?」
「うん」
別に言いたくないわけじゃない、麗奈を信用していないわけじゃなかった。
ただ俺は……過去に大きな十字架を残したまま逃げてきた。まだ子供だった俺にはその想いを背負う覚悟ができず、忘却することでずっと逃げてきた。
それを受け取っていないまま過去を述べるだなんて、できるわけがなかった。
俺はずっと囚われている。逃げ続けている。
過去を清算したくでもできない。だってあの人は、俺を信じてくれたから。信じてしまったから。まだ何も成し遂げていない今の俺を見たら、きっと失望してしまうだろう。
『一輝君、君は──将棋が好きかい?』
脳裏に焼き付いた言葉が反芻する。
出来るわけがないのに、不可能だと分かっているのに。
それでもその男は俺の目を見て、俺なんかの目を見て──。
『──そして君だけの…………』
その言葉を受け取るには、俺の体はあまりに小さかった。
◇◇◇
どうして、今さら昔のことなんかを思い出してしまったのだろう。
何かが飛び出てしまいそうな激情をグッと呑み込んで抑える。
──今は、対局に集中しろ。
△5二金。▲3四角。△3二金。▲6六歩。
定跡通りに進む戦い。蛯名萌香はここまで5秒も使っていない。
子供は指し手が早いというが、なるほど……。これは早いというより高速だな。
「果たして、アンタ如きにアタシの筋違い角が止められるかしら?」
腕を組みながら引きつった笑いを見せる蛯名萌香。
圧倒的な自信と余裕が彼女から強者所以のオーラを醸し出す。
しかし、俺は静かな視線を向けて無言で対峙していた。
笑うことは決して強者の余裕なんかじゃない。強者は常に堅牢な面を向ける。
余裕を見せることは緊張の表れ、笑うことは慢心の証、腕を組むことは威嚇の裏返しだと麗奈から教わった。
今、蛯名萌香はこれら3つを見事に体現している。
ブラフだろうか? いいや、ブラフなら川内副会長で経験済みだ。
あの人は余裕があるにも関わらずその片鱗を俺に見せなかった。そして俺がゾーンに入るまで腕を組むことをやめなかった。
警戒していないのに、警戒していると見せかけていた。通常の心理と真逆の行為を行っていたんだ。
若者が心理戦でも勝負を仕掛けてくることを見越して、あの人はその心得を持っていた。だから俺は川内副会長に心理戦で勝つことができなかった。
「"唯一"か……」
「?」
ふと漏れ出た言葉に蛯名萌香は首をかしげる。
定跡手を指そうとしていた手が止まり、俺はその自らの手を見つめた。
俺の考えはあまりに単調で、単純で、まだまだ子供だったのかもしれない。
とにかく最善手を指すこと。それが頂点を目指す上での基礎だと思っていた。
だが、俺の前に立ちはだかった強者達はそうじゃなかった。彼らは最善手を絶対的な武器にはしていなかった。
例えば麗奈は、あらゆる戦法を使いこなすオールラウンダーだ。
だから戦型における最善手は決して指さないし、あくまで相手の嫌がる戦型を組むことに徹する。
黄龍戦の決勝戦で戦った川内副会長も同じだ。自身が劣勢な局面だと理解した上で相横歩取りという戦法を選んだ。最善の戦型を選ぶより、あえて形勢で劣りながらも自身の土俵に持ち込む戦術の方が得策だと考えて俺を翻弄した。
そしてあの龍牙ですら、挑発に乗った俺を陥れるかのように居飛車から陽動振り飛車へと攻撃を転換させて奇を衒う戦術を取っていた。
みんな、俺の思う強者達は決して最善に固執しない。あくまで最善手は選択肢の一つとして捉えている。最善手を指すことと、それによって得られる利益を天秤にかけて取捨選択を行っているんだ。
これは機械的な手法に対するアンチテーゼなのかもしれない。
相手の情報や心境、そして自分の使える手札を鑑みて一番良いと思える手を指すことこそが、真の意味で最善手たり得るんじゃないだろうか。
──いや、きっとこの考えも間違っているんだろうな。
ただ……"考える"という行為自体は間違っていないはずだ。
俺達は将棋の神じゃない。絶対的な正解の手を持っているわけじゃない。だから仮に間違っている考え方だったとしても、捉え方次第で糧になる。
真っすぐ進むだけでゴールへ向かえるほど将棋は甘くない。
幾多もの遠回りをして思考力を培っていかなければ、決してゴールにはたどり着けない。
悔しいことに、将棋とはそういうものだ。
△8四角打。
婉曲の果てに導いた結論は、案外単純で安っぽいものだった。
「……?」
怪訝そうな顔を浮かべる蛯名萌香。ここでの角打ちは見慣れない形だろうか。
この角打ちの意味は6六の歩を取ろうとする単純な一手だ。しかし筋違い角側はこれを無視できない。
何故なら、筋違い角を指す者は総じて序盤の一歩得を重要視している。重要視しているからこそ、序盤で相手の歩をかすめ取れる筋違い角を指すのだろう。
だから、この手に対する蛯名萌香の対応は決まっている。
▲6八飛。
実に筋の良い飛車振り。
元々振り飛車の戦法である筋違い角にとって、この一手はどのみち必要な一手。
俺の角打ちに合わせての鍔迫り合いは向こうの本望。歩を守るために手順に飛車を振れるのなら、まさに好都合な攻防手だろう。
だが、それはいっときの幻だ。
△9五角。
サッと繰り上がるように角を斜め上に一段だけ移動させる。
その手を見た瞬間、蛯名萌香の眉が一瞬ヒクついたような気がした。
「……それが作戦ってワケ?」
「まぁね」
これで準王手飛車、間接王手飛車がかかる。
実質的な王手。飛車角交換の強要。放たれた角の利きが蛯名萌香の人質に鋭利なナイフをあてがって不敵に笑う。
蛯名萌香の飛車はもう逃げられない。
この手は筋違い角の定跡手じゃない。──故に、最善手ではない。
しかし、俺はこれが最善じゃないと知りながらこの手を指した。
最善手を指すことだけが強者の戦い方ではない。それを学んだからこそ、俺は最善だけの道に逃げることをやめた。
筋違い角は開始早々に一歩得をするだけの戦法。
逆に言えば、このたった一歩得に価値を見出すほど神経質でなければ筋違い角を指すことはできない。
だから、この準王手飛車は刺さる。
一歩得を気にするほどの巧者ならば、序盤から場を噛み乱して乱戦に持ち込まれるこの局面は最悪に等しい。
だって、乱戦になれば一歩得なんてアドバンテージは消え失せてしまうから。
蛯名萌香の性質は巧みなまでの堅実な指し回し、それは乱戦を主軸とする横歩取りが得意な俺とは真逆だ。
だから俺は最善手を捨ててこの手順を選んだ。
「……面白いじゃない」
そう呟く蛯名萌香に、俺は挑発するような視線を向けた。
「効いたか?」
「ノーダメに決まってんでしょ」
▲5六角。
強気な姿勢を向ける蛯名萌香は、やってこいと言わんばかりに飛車を放置する。
当然の選択だ。玉を逃がせば確実に飛車を取られるが、玉を逃がさない限り飛車を取られるのは今に限った話ではなくなる。
選択権を俺に明け渡しているように見えて、自分はいち早く態勢を整えている。
やはりと言うべきか、性格に反して堅実な巧妙が窺える。先を見据えるのは将棋指しの十八番だが、それを実際に行っている者は少ない。
……冷静だな。
△3三銀。
ならばとこちらも飛車を取らずに陣形を整える。
「……」
「……ちっ」
将棋には相手との阿吽の呼吸が求められる。
倒すべき相手なのにも関わらず、こちらは常に相手の手に応じて流れに乗らなければならない。先にそれを破った方が瓦解するようにできている。
独善的な手を指して許されるのは、初心者か将棋AIだけだ。
▲1六歩。
ここで初めて長考に入った蛯名萌香は、数十秒の沈黙の後に端歩を突いて様子を見る。
何かを企んでいそうな顔だ。
△6二銀。
こちらも最後の小駒を動かしてひとまずは遊び駒を解消する。
「フフっ……」
▲1五歩。
こちらが端歩を突き返していないことを咎めるように、蛯名萌香は早めに端を突き越した。
向こうの筋違い角がこちらの端を睨んでいることもあって、見た目以上にプレッシャーがかかる。
筋違い角戦法──。広大な盤面全体を駆使して戦い合うのは、従来の普遍的な横歩取りに似た感覚かもしれない。
俺にとっての横歩取りは急戦が全てだった。先手を引いても後手を引いても急戦型に持ち込み、研究勝負へと舞台を移す。
だから一般的な横歩取りは指してこなかった。
広大な盤面を動かすには膨大な手数を読む必要性が出てくる。麗奈のような生粋のオールラウンダーでもない限り、個々の盤面を常に把握するのは至難の業だ。
俺が振り飛車を苦手とする要因もまさにこれだった。
過去の俺が振り飛車に対して敗北した原因はたった一つ。この広大な盤面を見渡せずに起きた単純な"見逃し"である。
一手見逃せば劣勢に、二手見逃せば敗勢に。将棋における一手の価値は何よりも重要視される。
だから俺は、一番初めの特訓でこの見逃しを無くすことを麗奈に頼み込んだ。
見逃しを無くし、局面全体を把握できるように視野を広げる。口で言うのは簡単だが、実際にやってみると死ぬほど大変だった。出来るようになるまで血反吐を吐くくらいつらかった気がする。
そうして覚えたものだからこそ、俺は決してこの感覚を忘れない。
自分が今どんな状況に立たされているのか、相手の狙いはどこか、これからどこを起点に戦いが起こっていくのか。
戦線の把握、流れの推察、敵の目的の認知、未来図の予想。将棋において必要な考え方を全て麗奈に叩き込まれた。
見るべき局面は常に未来。こちらの手番を鑑みずに、相手がどこを攻め、どうすればこちらを追い込めるのかを逆視点になって考える。
考えた後に導いた結論を逆算し、そこにどのような手を加えれば相手の攻めが繋がらないかを考える。
そうして考えだされた一手だけが、その瞬間で唯一価値ある手なのだと教わった。
△6四歩。
今の蛯名萌香の思考には守るという考えがない。
何故なら、俺が今もなお準王手飛車を掛け続けている状態だからだ。
攻められている状況で守りに転じると、一生攻守が逆転せずに押し切られて負けるというありきたりな展開が待っている。
だから、蛯名萌香は攻めの機会を窺っている。こちらの弱点を見極め、針に糸を通すような細い手順を虎視眈々と窺っている。
俺はその思考の目線を辿るように思索し、無数にある選択肢の中から可能性のあるいくつかの候補手を絞り出す。
そして、こちらの手で誘導することでその手をさらに絞り切り、明確に生み出された手数の中から優勢劣勢の形勢判断を即座に行う。
この△6四歩は、将来玉を右側に囲う『右玉』という戦法の準備をするためのものだ。
飛車先が通ってる場所に玉を移動させようとするなんて正気の沙汰ではないと思うが、向こうの飛車はもうこちらが入手したも同然の状況だ。つまりいないものとして考える。
そして、向こうの5六にいる角が8三にいる歩を睨んでいるせいで、こちらは迂闊に飛車を動かすことも歩を突くこともできない。
だから、あえて右玉を目指した。
──"玉飛接近すべからず"。
本来であれば飛車と玉は離れて使うのが将棋の定跡だ。飛車と玉はどちらも価値が高く狙われやすい駒となっているため、両者が近づくといっぺんに狙われる可能性がある。
だから両者を離すことで、リスクヘッジがしやすいように駒組ができるというわけだ。
と、本来ならその思考でいくのだが、今回はこちらの飛車が非常に窮屈で動きも限定されている。このままでは狙われるどころか釘付けにされてしまう未来が簡単に予想出来る。
だからあえて玉を近くに寄らせることで、強制的に飛車を働かせるという逆転の発想を使う。
両方がいっぺんに狙われるリスクは格段に上がるが、それまでまともに機能していなかった飛車が強制的に働くようになるのならばなんら問題はない。最悪見捨ててもプラマイゼロだ。
それに、俺がそれまでに蛯名萌香を仕留めきる可能性だってある。
とはいえ、これはあくまで憶測の範疇だ。将来右玉をするために作る形なだけであって、本当に右玉になるかは蛯名萌香の動き次第だ。
将棋は単独では完結しないボードゲームだからな。
だが、そう言った意味で指す△6四歩だからこそ、俺は価値ある一手だと思っている。
▲3八銀。
かなり離れた位置にいる銀を立たせる蛯名萌香。
将来美濃囲いを作るためとも思える単純な一手に見えるが、この手は要注意だ。
ジグザグの形となる一役を買うことになった銀の本当の役目は、斜め後ろの駒との強制連結。自陣に対して軽微ながらも迅速な紐付けを行い、いつでも攻められる体制を整えた一手になっている。
ここまで来ればもう見えてくるだろう。
蛯名萌香の狙いは──こちらの左端への殺到だ。
△4四銀。
「……!」
俺の指した一手に蛯名萌香が僅かながらに反応した。
蛯名萌香の狙っている攻め筋は俺の左端。しかし、俺はその左端で待機している銀をわざわざ右に繰り出して攻勢を図った。
将来攻められる可能性のある場所の守りを自ら放棄したのだ。
俺は蛯名萌香が端から攻めてくるのを分かった上で、あえて守りを薄くした。まるで攻めてこいといわんばかりに挑発を交えて銀を繰り出した。
もちろんこの手にはしっかりとした理由がある。
そもそもとして、将棋の攻防は足し算や引き算で成り立っている。1枚の攻めは1枚の守りで防げるように、2枚の攻めは2枚の守りで防げるように。
しかし、3枚の攻めは3枚の守りでは防ぐことができない。
何故なら、互いの攻防の過程で必ず相手に小駒が行き渡ってしまい、その分の攻めが途切れることなく続いてしまうからだ。
将来角が向こうの手持ちに入ることを考えると、こちらの左端はどう頑張っても受け切れない。
であれば、受け切れない所に守り駒を移動させる必要などない。端の守りは最低限にして、こちらの攻めを完遂させればいい。
その意図を読み取ったのか、蛯名萌香は即座に攻める手を出すことはなく、自玉をゆっくりと左辺に持っていった。
▲4八玉。
この手を見た瞬間、俺はノータイムで蛯名萌香の飛車を掴み取る。
△6八角成。
「逃がすかよ」
これだけ乱戦調に手が進んでいて、これだけ飛車の首元にナイフを突きつけていて、今さらゆっくり守らせる気などあるわけがない。
俺は準王手飛車の筋が切れた瞬間即座に飛車を奪い取り、当然それを分かっていた蛯名萌香もノータイムで俺の角を取り返す。
▲同銀。
「小学校で習わなかったかしら? "序盤は飛車より角"なのよ──!」
「生憎と俺は"飛車厨"なもんでね。その教科書には落書きしてたわ」
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