第九十手「高段者の指し回し」
△4六歩、▲同銀。
両者が手を指すたびに評価値は上へ上へと伸びていく。
+542。+578。+620──。
手が進むごとに差は広がる、広がる、広がっていく。師匠の評価がどんどんと良くなっていく。
おぼつかない炎は消えることなく燃え盛り、盤石の強さをもって証明する。
あるいは支配、あるいは掌握。師匠の自陣に広がる大きな空間は隙だらけに見えて無限の罠が仕組まれている。
そして対戦相手の表情が次第に歪んでいった。
おかしい、なぜ敵陣はこれだけ崩壊しているのに隙がないのかと──。
遠くで他の対局を観戦している蛯名萌香に、私は哀れみの視線を送る。
間違ってる、間違ってるわよ、蛯名萌香。あんたは彼の全てを見誤っている。
川内副会長を倒した男が、黄龍戦を優勝した王者が、そのままの実力で日々を過ごしていると思ってるの?
私達は成長を続けている。それは無限の成長、際限無き成長だ。頂へ登る道は果てしなく遠いのだから止まっている暇などあるわけがない。
川内副会長を破った黄龍戦を経て、私と師匠は将棋の『変格』へと挑んだ。
これは高段者なら誰しもが通る道。既存の見え方を崩し、本来であれば指せない手を思考に馴染ませていく。ここまで培ってきた基盤を壊し、より優れた基盤を一から作り直していくというもの。
それはいつか挑まなきゃいけない大きな壁で、越えなければいけない試練だった。
今までの将棋はいわば"中段者"の将棋。しかしこれから私達が辿らなければいけない将棋は"高段者"の将棋だ。
その場その場で与えられた選択肢の中から最善の手を探るのではなく、自ら最善を生み出す読みの力を身につけなければならない。
感覚を変え、ロジックを変え、最善だと思う手に疑問を持つ。そして一見悪手に見えるに新たな可能性を作り出していく。
県大会を控えているこの状況で、私達は自らの逆境へと挑んだ。
棋力が下がるかもしれないリスクを背負いながら県大会へと挑むなんて、誰がどうみても狂気の沙汰と思うだろう。
──だから、誰も私達の成長を予測することができない。
△3四歩打、▲4五桂、△4四角、▲5五銀。
玉を守るはずだった先手の小駒達は次々と上部へ進出し、後手の陣形を圧迫する。
あれだけ攻めていたはずの後手はいつの間にか抑え込まれる形となり、先手の素早い反撃で後手の角は完全に捕まった状態となった。
△同角、▲同歩、△4四歩打。
相手も負けじと角を切って先手の桂馬を仕留めに来る。
師匠の陣形は後手と比べてかなり広く、空間ができてしまっている。このままでは飛車や角、桂馬や香車と言った広範囲に攻撃出来る駒を手にされると一気に寄せられてしまうだろう。
だから相手はそれを読んで角切りの手順を選択した。
多少の駒損になったとしても、後手は攻め駒さえ手に入れば空間の開いた先手陣を簡単に切り崩せる。
この桂取りはその可能性を含んだ後手の勝負手だ。
▲5三桂成。
しかし、師匠はそんなものお構いなしに自ら桂馬を捨てにいった。
相手は一瞬驚いた表情を浮かべる。
本来ならこの手に代わって別な手を指すのがセオリーだ。既に桂馬が取られる事実は確定しているのだから、他の手を指した方が1手だけ得することができる。
なのに師匠は既に死んだも同然の桂馬を動かした。
△同金。
相手は喜んで桂馬を取る。
手順に取れたのだから相手は実質的な手得となり、師匠は手損となった。
そして師匠はノータイムで次の一手を指し返す。
▲2四歩。
ここで漫然たる歩突き。そんな手でいいのかと言わんばかりのふわっとした一手。
それを指した瞬間、相手の師匠に対する評価がガタ落ちしたかのような疑惑の目へと変わった。
当然だ、今の師匠は相手に駒を捌かれた状態にあるのだから。
急所に刺さる駒を相手に取られ、自陣の守りは手薄になり、玉の逃げ場所は角が邪魔で左に道がない。こんな状況下でふわっと、飛車先の歩を突くだけという悠長すぎる手を指せば相手が疑問に思うのも無理はない。
その一手はあまりにも穏やかで、緩やかで、まるで力の入っていない人形のような動きだ。
△3三桂。
相手はそんな師匠の悠長な手に応じるかのように、桂馬を飛んで遊び駒の活用を行った。
次に△4五桂、△5七桂成と跳ねて行けば師匠の玉は一気に追い詰められる。
現状先手玉の逃げ場は6八地点しか残されていない。つまり、5七の地点に1個でも後手の成駒ができてしまったら一巻の終わりだ。
緊迫の場面だろうか。勝負の局面だろうか。
師匠は残り時間を10分ほど残したまま、ゆっくりと目を瞑って15秒ほどの考慮に入る。
そして再び盤面を見つめると、飲み物を軽く口に含んで姿勢を正した。
▲2三歩成。
ここまでずっと受けに回っていた師匠がいきなり攻勢に出る。
愚鈍な感覚は終わりを告げ、白い湯気から顔を出した秋の光が肩に触れた。
照らされた盤面は二分割されるように斜線を描き、流れは一気に転覆を始める。
そこにあったのは、ただ全てを読み切った男の顔だった。
△同飛。
数秒の間をおいて後手は飛車で歩を取る。
△同金は▲3一角打から飛車と金の両取りを掛けられるため、ここは△同飛の一手しかない。
しかし──。
▲同飛成。
△同金。
▲2一飛打。
そこから始まったのはノータイムの捌き合い。
色褪せた世界は一気に絢爛し、左手側で命を削るはずの数字はまるで写真にでも切り取られたかのように同じ状態を維持する。
これまでの師匠には見られなかったあまりにも素早い早指し。
それは相手を威嚇するとか、ハッタリをかますとか、そういう理由じゃない。
これは、全てを読み切ってあとはゴールまで作業をするだけの思考に移り変わった時の"勝者"の指し方だ。
始まった。ここまで身を潜めていた師匠がついにその全貌を曝け出した──。
次回更新日→1週間後




