第九手「視線を上げた先」
さて、前回の問題の答え合わせです。
棒銀成功後の攻め方についてでしたよね。
この局面で後続手になる次の一手。
正解は──
──1五歩!これが後続手です。
うーん、1五歩なのは分かるけど銀と歩1枚でその攻め繋がるの?
繋がります!
同歩に1三歩!
同桂だと香車が走れて手が続きそうですね。
放っておいても香車が走って良さそうです。
では同香にはどうするのでしょう…
1二銀打!これが後続手の一手です!
これは桂取りと次の2三銀成を見せていて後手厳しい。
この両方は受けられないため先手は駒得が約束されましたね。
こういう細かい攻めを覚えると勝率がグンとあがります。
是非覚えておきましょう!
それでは本編どうぞ!
俺は今、長考している。
将棋は長考するゲームだが、現実でも長考することはよくある。
俺は今、すごく長考している。
時間的に言うと10分くらい。……あんまりしてないな。
隣のからシャワーの音が聞こえる。
麗奈の服を汚してしまったため、お風呂を貸したのだ。
そして長考している内容はもちろん、さっき鈴木会長が言ってた言葉。──"プロ"を目指せ。
麗奈だけならまだ分かる、いや麗奈だけでも相当難易度高いけど。
だが俺に関してはまず無理だ。年齢が既に20歳、今からじゃ奨励会にすら入ることもできないし、仮に入れたとしても年齢規定が目の前すぎて数ヶ月も持たないだろう。
21歳までに奨励会"初段"(アマチュア"六段"相当)に満たない場合は退会となる。
そして26歳までに奨励会三段リーグを越え、奨励会"四段"にならなければプロにはなれない。
簡単に言えば、小学生の時点でアマ四段~五段レベルの実力がなければ、将来のプロ入りは難しいと思った方がいい。
そういう点でもはっきり言ってしまえば、既に中学生を迎えてしまっているであろう麗奈が現時点でプロ入りを目指すのは無理だ、不可能といってもいい。
そもそも女性のプロ棋士なんて過去に一人もいないというのに、一体何を期待して鈴木会長は俺に託したんだか。
まぁ麗奈は一旦置いといたとしても、やはり俺が奨励会に入るのは年齢的にもう無理だ。
目指す残る道はプロ編入だけど……やっぱり無理だ、実力が違い過ぎる。そもそも地区大会すら勝ててないんだぞ、そんな奴がプロになったら日本中で大ニュースだわ。
「はぁ、お茶飲も……」
人間は熟考すると糖分が欲しくなると言われているが、俺の場合は水分が欲しくなる。
先程麗奈に零してしまったせいで結局飲めなかった麦茶をもう一度入れようと、俺は再び部屋の扉を開けた。
「あ」
「あ」
目の前には完全裸体の少女がいた。
しかも一切隠されてない。
あー……そういえば麗奈にバスタオル渡すの忘れてた。
「っ……!」
これはラッキースケベとかいう展開で、ビンタされたり物投げつけられたりするやつ。俺は人と絡むとテンプレを発動してしまう王道主人公だった説が浮上したな。
「ごめん」
取り合えず謝ってバスタオルを探す。
しかし麗奈は怒るでもなく恥ずかしがるわけでも無く、ただほんの少し顔を赤らめながらそっぽを向いた。
「いえ、貧相な体で悪かったわね」
「いやドストライクだけd──ゴホッゴホッ!」
「……」
正直一発ぶん殴られるくらいされると思ったが、裸体を見られても落ち着いてられるって相当だ。
麗奈は秘部を両手で隠そうとしているがそれが逆にエロい。数年前の俺だったら合意とみてたな、間違いない。
麗奈はその場で受け取ったバスタオルを体に巻きながら、恥ずかしげもなくその場に立っている。
「君ほんとに昨日の子と同一人物なのか?」
「普段はこんな感じよ」
「それがああなるって、よほど厳しい壁にぶち当たってたんだな……ほら」
「ありがと。まだその壁も越えられていないんだけどね」
普段使っていない新品の着替えをいくつか渡す。
麗奈って実際はこんな子だったのか、先日の件から生意気毒舌少女だと思っていたけど印象が変わったな。
ちゃんとお礼も言えるし、むしろ今まで出会ってきた女の子の中で一番礼儀正しいまである。
「着替えは本当にそれでいいのか?」
「ええ、それでいいわ」
「俺のだからちょっとぶかぶかかもしれないぞ」
着替え終わった麗奈がおもむろに胸に手を当てると、何も浮き出てこなかった。
「……本当にぶかぶかね、なんか虚しい」
「胸の辺りが?」
「あんた意外とひどいこと言うわね……」
むすっとしてこちらを睨むが、可愛さが増して全く怖くない。
「さて、と」
着替えが終わり、俺は盤を出し、麗奈と二人で向かい合う形となった。
胡坐の俺とは反対にずっと正座を崩さない麗奈に、俺は問いかける。
「鈴木会長の頼みを受け持ったはいいけど……麗奈、ちゃんは今何歳?」
「麗奈でいいわ、今年で14歳よ。そして師匠が言いたいことも分かる」
現在の日本において、女性がプロ棋士になった事例はまだ存在していない。それは小学生から奨励会に入っても尚だ。
麗奈は今年で14歳、再来年には高校生だ。そんな麗奈が今から将棋に人生の全てを賭けようとしている。もちろんそれが勝算のある賭けなら俺も全力で協力するつもりだ、だが……。
「……麗奈は本当にプロを目指すのか?」
「ええ。例え可能性が薄くても目指す、いえ成し遂げてみせるわ」
きっぱりと言い切る麗奈。
しかし俺は被せるように煽り立てる。
「率直に言って無理だぞ」
「分かってる」
「女流なら可能かもしれない」
「プロ一択よ」
「女性でプロになった例は将棋の歴史上一度もない」
「なら私が前代未聞になるのね」
俺の煽りに全て即答で返す麗奈。
全部承知の上で、それでも目指そうとしているのか。それほどまでに麗奈は自分の父親の指した一手が知りたいのか。
「……分かった。麗奈、君の熱意は伝わったよ。本気でこんな狂気の世界に挑むんだな」
「師匠だってプロを目指すんじゃない」
「地区大会の連中にそれを聞かせたら大笑いしそうだな」
冗談を言うように笑う俺に、麗奈は真剣な顔で返した。
「二度と笑われないくらいに強くなればいいのよ。所詮地区大会如きの連中よ、昨日のあの強さを意地でも活かすの。他の戦型でも戦えるように、今からでも強くなるのよ」
そう言われて俺は固まってしまった。真っ直ぐ目を見ながら伝える麗奈の瞳に一切の雑念は含まれていない。
まさか励まされたのか? こんな俺が?
「……まさかとは思うが、本当に俺がプロを目指せると思ってるのか?」
「は? 目指せるに決まってるじゃない」
「君はプロの世界を知らなすぎる……」
「なに寝言いってんのよ、私の父はプロ棋士だったのよ? 棋界の厳しさくらい人一倍知っているわ。知ってて言ってるのよ、あんたならなれるって」
差し迫る麗奈の言葉に、それでもと自分に嘘を吐く。
「だ、だって俺は地区大会も勝てないような──」
「地区大会で負けたから何? それは相手が常連で、貴方に対して振り飛車ばかりしてきたからでしょう? それとも才能が無いって? 横歩取りの定跡をあれだけ暗記するような人が才能無いわけないじゃない、ただ偏ってるだけよ」
盤を掴み、顔を近づける麗奈。
何一つ嘘を吐いていない瞳に、俺の顔が映った。
「私はね、傍から見れば馬鹿にされるような夢に進んでいるけれども、それを"軌跡"として残すつもりはないの。どんな苦難が立ちはだかっても絶対にプロになれる、本気でそう思っているからこそ、本気で将棋を指しているのよ。その私があんたに"プロを目指せる"って言うんだから目指せるに決まっているじゃない、プロにもなれないような男に師匠なんて言ったりはしないわ」
真剣眼差しで、それでも受け入れられない心にそっと差し伸べられた手。
その手を掴めればどれだけ良かったことか。現実は甘くない、才能は実力に直結する。それがこの将棋という名を冠したボードゲームの正体なんだ──。
だが、麗奈はそれでも言葉を続けた。
「地区大会の連中がそんなに怖い? いいえ、怖くない。あんたは自分の実力を過小評価しているだけ、自分に眠っている力を知らないだけよ。本当の実力を見せてやりなさい」
胸からこみ上げてくる謎の感情を、麗奈の言葉と共に必死に飲み込む。
不安だった、何もなかった、ずっと一人で指していた。俯いてた、下を向いていた、その視線を上げてくれるものは誰もいなかった。
力強く握る拳に麗奈の両手がそっと置かれた。
柔らかく優しい感触と、暖かい温もりが伝わってくる。その感触に俺はふと顔を上げた──。
「ほら、ちゃんと目の前を見なさい。あんたが打ち負かした相手は去年の地区大会優勝者なのよ。どこに弱音を吐く要素があるのよ、自慢できるじゃない」
「は、はは……」
胸からこみ上げてたものが渇いた笑いと共にほんの少し溢れ出た。その時をどれほど待ち望んでいたか、どれほど吐き出したいと思っていたか。
笑う口とは対象に潤う目元。
誰からも応援されず、誰からも注目を浴びず。それでも好きな事だからと必死に追いすがっていた俺に向けられる視線は、いつも弱い者を見る目だった。
それをここまで肯定してくれた人がいただろうか、ここまで真摯に答えてくれた人がいただろうか。
目の前の少女はまるで当たり前のように返事をする。当たり前の事を、当たり前に答えただけだと言う。
それが本当に、ほんとうに……。
「何泣きそうな面してんのよ、時間は無いんだからさっさと指すわよ」
「……ああ!」
──嬉しかった。